条件反射を喚起する-パブロフの犬で紹介した通り、特定の刺激(情報)と感覚を同時に与えることでそれらが脳の回路の中で結びつき、その刺激(情報)を受けたときにその感覚も自動的に生じるという機能が人間には備わっており、これを条件反射といった。 kaikaikikiの村上隆氏は、現代芸術は幾層にも重ねられたコンテクストのレイヤーの多層性がその作品の計算された奥の深さを織り成し、従って鑑賞者には歴史のアーカイブをすでに持っていることが求められ、そうした基礎的な素養、つまり世界的には常識となっている芸術の見方を知らない日本人は現代芸術が解らないと主張した。 歴史を紐解けばいわゆる現代芸術に限らず、先端的な芸術を鑑賞または評価するのにいつの時代もこうした態度、即ち歴史のアーカイブというレンズを通して観るという態度が必要だったことは言わずもがなである。新しい芸術は誰もまだ「知らない」のだから。 実際に氏の作品には日本のオタクカルチャーという文脈だけでなく、伊藤若冲のような日本の伝統芸術のレイヤーや他の現代アートからのコンテクストの引用が多分に含まれている。 芸術とは生まれ持っての感性で観るものだとする横尾忠則氏のようなアーティストとは相反する態度である。 では現代芸術のようなローコンテクストな芸術作品はアーカイブというレンズを通して単に理性的に鑑賞する対象でしかないのだろうか。つまり我々はそうした作品に対して感覚的にでなく分析的に良し悪しを「感じる」だけなのだろうか。 (2に続く)


北朝鮮がミサイル発射実験を行った4月13日は羽田に向かう日の前日で、クアラルンプールからバスでシンガポールに向かっているときだった。

ミサイル発射の計画自体を知ったのはセブの友人が4月4日付けのManila Bulitenを見せてくれたときで、そこには成田を含むアジアの主要な空港が便を止めると書かれていたのでそういう事態も想定に入れていたのだが結局実験は失敗に終わっただけとなった。目標ポイントはフィリピンの東の海であり、そこに落ちれば地震のような揺れが起こるだろうと書かれていた。
そんな経緯もあり日本の知人から少し心配されもしたのだが、むしろ日本にいる方が危険だと思っていた。
確かに韓国、那覇、その南の米軍から成る3ゲートでの追撃体制は所定の弾道プラスαで想定すれば堅いディフェンスと言えるのかもしれないものの、1000機保有していると言われる中距離ミサイルを任意に放たれた場合、防ぎきれない可能性がゼロに近いとは言い切れないのではないかと思ったからだ。そして何より狙うとすれば実は日本は格好のターゲットである。

少なくとも先日のように予告されている場合でなければ、迎撃に国会の審議を必要とする今の日本のシステムではどう考えても間に合わない。北朝鮮は国際経済に順応する力がなく、また自活する力もなく、もはや恐喝することでしか生き延びれない国である。総書記が変わり、その影響力が下がれば軍部の論理の抑制が解かれることも想定されるので、諸々の状況をシミュレーションし戦略を用意する事は喫緊の課題だと思われるがそうしたことが行われているようには見えない。
北朝鮮に武器を調達していると言われる中国と、即座に報復可能な準備が出来ている韓国、丸腰の日本。この中で狙われる国を考えるのに家電向けのICチップすら要らないだろう。

セブでルームメイトだった韓国人の友人はミサイル発射のアナウンスなどよくあることで、技術力も低くあの国は脅すことくらいしかできないから全く問題ないと言っていた。
実際には私も楽観視している方で、かといって国が物理的に破壊されるリスクに対して何の戦略もないという状況は少なくとも褒められた事ではない。


パブロフの犬という実験をご存知だろうか。パブロフは1904年に最初のノーベル医学生理学賞を受賞したロシアの生理学者だが、犬を対象に餌と唾液分泌の関係を調べているうちに餌を与える係の学生を見るだけで犬が唾液を分泌すようになることを偶然発見し、この生理現象を先天的な「無条件反射」に対して「条件反射」と名付けた。

つまり一定の条件が与えられるとその条件に結び付けられた回路をパルスが走り、特定の行動や感覚を引き起こすというものである。
これは人間にも起こることはしばしばレモンのイメージを与えて唾液線を刺激するような実験で説明される。

さて、条件反射を喚起するというテーマであるが、即ちこの生物がもつ条件反射のメカニズムを応用し自己や他者の情動に変化を与えることができれば自分を含めた人を動かすことができるということになる。
レモンをイメージさせて唾液を分泌させるように、ある任意のイメージを想起させてターゲットとする感覚を引き起こし、期待する行動へと誘導する。
ある共通の文化的背景の中で多くの人が後天的に身につける条件反射のパターンというものが確実に存在するので、そのパターンに嵌め込むということである。

その際に無視できないのは織り成される言葉がもつイメージ喚起力である。人は小説を読むと脳内に像を描き、時には登場人物が経験する感覚に自身の感情を半ば無意識的にシンクロさせてしまうということがある。またギリシャ神話で用いられた物語のパターン-少年が旅立ち自らを鍛え悪に立ち向かい真の父親に出会うというパターン-では条件反射的にアドレナリンを分泌させるので数々の物語に応用されている。(忠実に従ったものとしてSTARWARSが有名であるのだが)

ローコンテクストな芸術作品を見た時にアーカイブの量と質によって感じ方が異なるのもこのメカニズムによるものだろう。吸収してきたアーカイブによって後天的に作られる回路がそう感じさせるのである。一方で長調では明るく、短調では切ない感覚を覚えるのは無条件反射に属すると思えるがこの辺りはドーキンスの進化論で示された文化ミームとの関わりから後ほど詳しく書くことにしたい。


World Wide Webの生みの親であるティム・バーナーズ・リー氏も指摘するように、個人情報が漏洩する危険性は日に日に強くなっている。ソーシャルネットワークにポストする情報はもちろんのこと、ネットワークに接続されている限り我々の位置情報は逐一記録されているし、昨年話題になったようにスマートフォンは指の動きを常に記録している。米国では50以上の団体が小型カメラや赤外線を装備した無人機の利用を許可されている。

こうした合意なしに取得されてしまう情報を恣意的に削除したり堰き止める手段はサービスやデバイスを使わない以外に今のところほぼないので、個人でできることは余計な情報を自ら流さないようにするくらいだろう。

今はまだ個人データの利用方法が成熟していないので事態は表面化していないものの、遅かれ早かれ騒がれることになる。集合知が「集める」段階からオーガナイズされるレベルに今後進むのはほぼ間違い未来と言えるからだ。
つまり個人がなんらかのインターフェイスによって入力したデータ(本人がいとしようがしまいが)によって次なる価値を生み出す試みである。


今世界で最も注目すべき話題はBRICS銀行の動向だろう。東京にいるとそんなこととはまるで無縁のように感じられてしまう。メディアを中心にそういった世界の大きな風の流れをセルフディフェンスのようにふわりと何事もないかのように受け流す在り方がこの国の閉塞感を作り出すひとつの要因になっている気がしている。ドル中心の経済は数年後には大きく様変わりしているのだろうか。

ところでソフトウェアにおける機能とは車にとってのエンジンやステアリングといったものに過ぎない。
すべて揃って動けばそれは車と呼ばれるがそれだけでは車でしかない。だから私たちは多様な車を生み出し、選ぶ。シート、ハンドル、ペダルの位置関係やハンドルを切る重さ、エンジンの音、サスペンションの効き具合、そうしたものをトータルでイメージして具体化するということがソフトウェアにも求められるはずだがそういったデザイン性、つまり体験をデザインするということがあまり重視されていない。このデザインは技術と深く関わっている以上いわゆるデザイナーというよりむしろエンジニアこそ手がけるべき領域である。もっとソフトウェアが芸術であるという理解がされていいし、エンジニアはアーティストと認知されるような仕事をしていかなければならない。
そしてそれができるのは多くの場合個人である。


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あなたのプロダクトにある問題が起きていることに、あなたは気づく。そこであなたはこう考える。

Can we built a solution for that problem?

答えはYesだ。さて、この問題解決に着手しよう。。。

知っての通り起業家のためのバイブルとして各国で圧倒的に支持される本書は日本でも邦訳が出るらしいが原著を先々月頃から読んでいたので、一足先に書評を書いておこうと思う。と、書ければベストだったのだがもう出ているらしい。
原著で読む場合はAudible.comで著者Eric Ries本人が読んでいる朗読が手に入るのでこちらもお勧め。

要旨としてはスタートアップビジネスにとって、早めにMinimum Viable Productと呼ばれる最低限の必要機能を備えたプロトタイプを世に出し、サービスの作り手の想像の範疇で試行錯誤するのでなくユーザーが真に望むサービスへの改良をフィードバックループの中から探れというもの。Lean methodからすれば冒頭に書いた問題解決のプロセスからは3つの問いが抜けている。

1.Do consumers recognize that they have the problem you are trying to solve?
2.If there was a solution,would they buy it?
3.Would they buy it from us?
4.Can we built a solution for that problem?

つまり限りあるリソースの中で着手する前に顧客が望んでいるか。
言うはたやすいが、一度でもプロダクトを世に問わせたことのある人であれば、行うに難い場面をいくらか想像できるのではないか。可愛い我が子のデビューはスティーブジョブズのプレゼンテーションのように完全に整えられた状態で飾らせたいと思うのが親の常であるだろうし、本書にも書かれているが皮肉なことにユーザー数も収益も少しあるより”ゼロ”の方が人は可能性を感じるので、作り手含む関係者各位の期待を裏切るまいという心理が働けば完成品への拘りが尚更生まれる。
膨大なコストをかけて完成させたプロダクトや新機能が蓋を開けてみたらユーザーの望むものではなかったという著者のIMVUでの苦い経験(実際には投資家や従業員からのプレッシャーを考えれば相当な苦難だったに違いない)から語られる教訓には相応の説得力が込められている。

アントレプレナーが直面する各フェーズに沿って本書は進行していく。米国一のオンラインシューズストアでAmazonに好条件で買収されたZaposやHP、Facebook、Dropboxなどシリコンバレーのスター企業がフレームワークのテストケースとして次々と挙げられ、Zaposについてはトニー・シェイ『ザッポス伝説』がこれまた面白いのだが、アメリカ最大のオンラインシューズストアもはじめは小さな実験からスタートしている。オンラインで靴を買う需要が本当にあるのか試すために、ネットでオーダーが入ると靴屋から商品を全額で買い取り郵送で送るという地道な作業を繰り返した。
本書ではこの過程を著者が説くフレームワークの一部を当てはめ、それがどうプロダクト改善のためのプロセスに有用だったかを解説している。

本書の何が新しいのか。全て想像できる範囲内にあるという意味においては正直これといって新しいことは何もない。ただあまりに有名になった数々の成功神話と固定観念と、そして創造者であるがゆえに持つ衝動から離れ、泥臭くも賢明な創造の舞台に上がる前の手人文字としてこれ以上のものはないだろう。NIKEのキャッチコピー”Just Do It”式のギャンブルでなく再現可能な科学として抽象化できる教訓はこれが限度ではないか。私たちが知っている美しいプロダクトはそのプロダクト程美しくないプロセスで生まれている。


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今シンガポールにいる。バターワースから寝台特急に乗り、クアラルンプールから高速バスで移動した。
シンガポールの目に付く小学生くらいの子供達の殆どがタブレット端末を携帯している。小学生の頃にPC98やMacintoshが教育機関に配備され、中学でWindows95が一般家庭に普及した我々の世代とは見ている世界が異なるのだろう。見ている世界が違うということはそのまま異質の文化を醸成する可能性を孕んでいる。

フィリピンやシンガポールに対し、マレーシアでは英語が通じにくい。正確には訛りがきついので非常に聞き取りにくい。ますます増加する英語を話す人々にとって今後英語でのコミニケーションに支障のある地域はそれだけで敬遠の対象になるのではないかと思った。少なくとも英語が通じやすい場所の方がストレスレスで居心地がいいのは間違いない。最低でも公共のサービスで英語の通じる国とそうでない国では人の移動の流動性に大きな差が生まれるのではないだろうか。交換が困難な通貨が流通している国で物流が滞るようにである。つまり相対的に異質なものとしての立ち位置を余儀なくされるということだ。英語の通じる程度が様々な国を行き来しているとそう感じてしまう。そして諸外国から見て日本という国はまるで異質なものと見られていたし、今もそうであるのだろう。人の流動性が停滞した都市は今後都市と呼べるのだろうか。

「日本人の9割に英語はいらない」は個人に対してのタームとして正しくても、日本や東京にとって正しいとは思えない。たとえそれらを構成するのが個人の集合体であってもだ。埋め合わせられる革新的な技術資源があるなら別なのだが今のところそういったものはまだ生まれていない。


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タイ、バンコクからマレーシア、バターワース行きの列車に乗っている。
バターワースはタイ国鉄とマレー鉄道の中継点であるが、バターワースからはクアラルンプールまでKTMを使う。マレー鉄道KTMは3月に貨物列車が脱線した影響でシンガポールまで運行しておらず現在クルアーン止まりだからだ。
因みに広告コピーでしばしば使われる、「マレー鉄道で半島縦断」は嘘である。マレー半島の陸路での縦断はタイ国鉄とマレー鉄道あるいはバスの組み合わせで可能になる。

バンコク、Pratunam地域はきってのショッピングエリアとだけあって平日でも活気がある。特に服屋は数、量、価格ともに卸市のようでありバイヤーなら何日もいられるだろう。タクシーに乗れば日本人と分かるやメーターを止めて運賃交渉に入るほど商売気が湧いている。そのため少々疲れることもある。

先日FacebookがInstergramを買収した。同社にとって過去最大級の買収であり、またこれまでの人員確保のためのそれとは違いサービス自体の吸収を目的にしている。よく競争相手として上がるGoogleがすでに多くのサービスを飲み込み、検索エンジンを入口としたコングロマリット型のサービスを展開してきたのと異なり、FacebookはこれまであくまでFacebook自体の改良と他社との連携という形で発展してきた。Facebook対Googleというタームが正しいかはさておき、売り上げ規模もまだ桁違いの両社はようやく比較の土俵に上がり得た段階にあるのかもしれない。勢力図はますます集約化が進むだろう。

4/11執筆


3/13のManila Bulletinによればフィリピン政府銀行は次年度の予算における外国からの借り入れを20%程減らし、より積極的な外貨獲得に向かう方針とのことである。これは同国の経済状況が上向きにあることを示している。

一方で知人から聞く限り確かに平均所得は徐々に上がっているが、一般の労働者の給与は以前低く、月2回あるpaydayで得た収入は日々の生活コストで殆どが消えてしまう。政府からの借り入れは容易なので足りなければ少額の融資に頼り、年間で分割して希釈された額を返していく。物価も徐々に上がっているため経済成長の実感は一般の生活者にはほとんどない。ここCebu Cityでは一部の良質な新しいサービスの大半は外国からの来訪者のためのものであり、価格も現地人には届きにくいものである。いずれもGaisanoやAyalaといった中国人ファミリーや韓国資本によって出資されている。こうしたサービスの従事者はサービス価値に反して一般的な現地労働者と変わらないため、結局のところ経営部門が収益の大半を持っていってしまうという構造になっている。つまり資本投下によって発展しつつある経済の利益享受者はあくまで外資系の参入者と政府のみで、市民には還元されていないのが現状だ。
グローバリゼーションとはいえ同一労働同一賃金とは単なる逸話に過ぎないのだろうか。

Cebuanoの知人の中に看護を専門とする二人の女性がいる。彼女達は病院が併設された医療系の同じ大学を卒業した同期であり、そしてそれぞれアメリカンでGEのCPAをしているフィアンセとコリアンの彼氏を持っている。一人は6月から米国の医療機関で働くことになっており、もう一人はトロントの医療機関で働く機会を手にしている。二人とも当然英語はネイティブのように話し、移転後の賃金はもちろん現地の労働者と同一である。こうしたことは水面下で進行しているかに見えるが、それは我々が日本人であるからに過ぎないのかもしれない。いずれにしてもすでに当たり前であるかまたは目を開けた頃にはすでにより当たり前になっているだろう。

つまり想定される将来とは、障壁は言語のみであり、障壁の少ない地域間において先進地域に後進地域からの一部のスペシャリストが集中する。技術、特に科学的なスキルとそして移動の活発化に伴いより比率が高まる国際結婚が橋渡しになっている。と書いていて疑問に思ってしまった。こんなことはとうの昔から起こっていたのではないか。ただ特異な言語を使う島国に住んでいたためにその実感を得る機会が希少だったにということにすぎないのだろう。

日本とは未だ精神的に鎖国を続けている国なのかもしれない。そしてその方針に迎合する個人以外は早く外に向うべきだろう。でないと本当にエキサイティングな世界から置いていかれてしまう。

3/18執筆


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セブのモバイルショップは殆どがSamsungかLGである。隅にさり気なくSony Ericsonがあるくらいだ。
ここでは数年前はSony Ericssonのデバイスが人気だった。NOKIAもそこそこ人気があった。今は完全にSamsungかLGである。価格が安いわりに機能性が高くデザインも優れていると認知されているからだ。NokiaやSamsungやLGのデバイスに対しSony EricssonのSDカードの規格だけが独自規格であり、こういうことが地味に消費者離れを招いている。一方で主要ホテルのフロントのコンピュータは殆どがSamsungであり、顧客の方を向く裏側のデザインまで配慮されているところを見るとユーザーのニーズを汲んだ戦略がシェアに結びついていると推測される。

車もHyundaiやKIAは安くデザイン性が優れていると思われているが、予算のあるPhilipinoは日本車を買う。ブランドイメージが高く品質への信頼があるからだ。家電でも同じで日本製のものは壊れにくいというイメージが定着している。しかし車は工業時代のものでエレクトロニクスでは圧倒的にKorea勢が制している。
郵便局など公共システムのIT化は遅れているが、近々ここにも韓国が介入する。資金力の脆弱な東南アジア諸国にこうしたインフラを提供するのは購買目的ではなく、資源を得る契約を交すためである。直接マネーを得ることだけがビジネスじゃないということだ。

要はこれらのことはどれも日本が工業化時代に影響力を持ち、情報とエレクトロニクスの時代で他国に席を渡しつつある歴史の変遷を映し出している。デザイン性云々はともかく少なくとも製造コストの削減とユーザー志向のプロダクト設計(これらはどこにリソースを集中させるかという点では通じる)に成功しなければ瞬く間にアジアの中での存在感を失うだろう。

かつてアメリカがハリウッドやMTVなどのエンターテイメントを浸透させ、マクドナルドなどを進出させることで覇権を獲得したのと同様の戦略を韓国は着々と進めている。
少なくとも大衆メディア向けエンターテイメントや先端産業に関わるクリエイターのレベルの高さと、それを波及させる戦略性は日本をとっくに凌駕しているので、鎖国しているだけでは根本的な解決にはならないことは言うまでもない。ハリウッドムービーが世界に波及し始めた頃、フランスは制限を加え国家的に自国コンテンツの割合を保とうとした。結果的にアメリカナイズに向かわず、グローバル経済が進むほど価値を持つ文化的優位性を後世まで維持し続けたとしたら正しかったといえるだろうが、情報が容易に海を渡る現在ではもはや囲い込むことに意味はない。外に向けて発信し、フィードバックを元にまた発信するという以外にないのである。
日本がアジアでトップだった頃はPhilipinoの日本語学習者は多かったが今は韓国語が抜き、中国語も増えている。ここにいるとますます韓国はアジアのリーダーとなるポテンシャルをもっていると感じる。

2/25執筆


摂理とは元々キリスト教の概念である。Providence(神意)に相当し、自然発生的に生まれ均衡の保たれたシステムを神の御業に例えて使われる。
アタリも指摘するように、人類が個人の自由の獲得へと奔走してきたことは歴史が示している。まるで個の自由がより尊重されたシステムこそエントロピーが増大した自然状態に近づくかのようにである。
このことから人間というものは生来自由を求める生き物であると仮定するならば、より個として自由に生きることが可能な時代になるにつれ、それを実践する人々の割合が増えるのは必然である。産業が複雑化すると同時に、情報で切り分けられた仕事はデジタルネットワーク上で転送可能になり、つまりこの高度情報化時代において土地への依存から土地に依存しないネットワークへの依存に変容したことが空間という一つの制約を我々から取り除きつつあるので、我々は必然的に制約の少ない方向へと歩んでいく。
個の自由とは何か。それは行動の選択肢がより幅広く、依存の少ない状態と言える。空間的な制約がなければどこにいるかを選択することができるし、時間的な制約がなければいつ何をするのかを選択できる。組織のコンプライアンスを背負わなければ、言論の制約を受けない。また給与所得による金銭獲得は給与の払い手、つまり多くの場合所属する企業からのみ生きるための資金を委ねている状態となり、ライフラインを一つの存在に握られている高リスクな依存状態と言える。子供であれば親が同等の存在である。農耕時代は文字通り土地に依存し、工業化時代は主に固定された設備に依存した。土地に依存せず携帯可能な情報デバイスを必須のツールとする現代は狩猟時代に近い。必須であるが依存しないのは道具は現地でも調達できるためだ。ソフトウェアやデータはクラウド上から引き出せる。

なぜ人々は制約の少ない低依存状態を指向するのだろうか。
多くの地上の動物は卵や胎内で生まれ、巣や親の近くで餌を与えらながら育つ。やがて自分の手足で移動できる身体能力を獲得し、自ら獲物を獲る方法を身につける。そして個として、時として他者と協力したり争いながら生きていく。こうした性質は我々が本能的に備えていることなのかもしれない。


生産と消費に分けられる経済活動の多くは自宅で完結できてしまう時代になった。それでも私たちは移動する。なぜか。移動は運動の延長で、運動は生命が生命たる証左なら、移動は生命活動の純粋な延長と言えるのかもしれない。生きているものは細胞が運動を続け、熱をもつ。

村上龍の小説にたしかこんな一説があった。『歌うクジラ』の末尾である。

宇宙ステーションから脱出したアキラは冷たい宇宙の闇の中で旅の途中に出会ったアンやサブロウさんやサツキという女のことを思う。そして輝く一点の光に向かって祈り、近づきつつある死を予感しながら大切なことを理解する。人生にとって唯一意味があるのは他者との出会いである。そして移動しなければ出会いはない。