喜捨餞別

2012/01/26

私は美味いものだけを食べて生きていきたいと常日頃思っている。もちろん食べるというのは比喩だ。嫌なことは極力しないよう努力する。嫌なこととは面倒なことや苦労を伴うものでなく、自分にとって価値の低いものという意味である。苦しいことでも価値のあることはいくらでもある。価値のないことに時間を消費するのは無意味だし、不味いものを食べていると舌が劣化し食欲も減退する。そうならないために一番いいのは極力シンプルな生き方を心がけることだ。シンプルであることは執着の対極とも言える。最も簡単なのはモノを捨てることである。ものを捨てることは本当に必要なものだけを残すマインドを作り、それは結果的に時間を大事にすることにつながる。必要なモノ以外を捨てるとどれだけ不必要なもの(重要でないもの)に執着し、またそれがなくても生きていけるかを無意識のレベルで知る。
人もモノも情報も世の中は全てに関わり切れないほど溢れていて、その全体量から考えれば重要だと感じる可能性があるものですら触れ合い尽くすことはできない。だから人生の有限の時間を価値あるもので満たす努力は捨てることから始まる。世の中はトレードオフであり、得ることと捨てることは同義だ。


コンピュータの進化を待っている情報産業分野というのは確実にある。動的な巨大データのビジュアライジングもそのひとつであろう。ソーシャルネットワークをはじめとするwebサービスにおけるユーザーの軌跡としてデータベースに蓄積された人知をある切り口により取捨選択し視覚的かつインタラクティブに表現することの可能性である。
それはまさにカーネギーメロンの教授でprocessingの作者であるベン・フライが扱っているような技術分野であり、実は私たちはSNS上のネットワークの視覚化すら未だまともに実現していない。フォロワーのフォロワーを網羅的に知るには、現状では最低でもフォロワーのURLを経過しなければならない。

オンライン上の結びつきが視覚化されると例えば自分の投稿したメッセージがRTされどこのコミュニティにまで波及したのかが一目で補足できる、といったような可能性が当然でてくる。このアイデアは一般ユーザーに始まり次は企業のマーケティングに応用されるだろう。

データビジュアライジングの可能性はすでにインフォグラフィックが証明している。時間の貴重性がますます意識される現代において、情報を視覚化し伝達スピードを高速化する仕事は今よりも確実に重要視されるようになる。
現状では新聞の風刺絵のような要素が強く、何より情報として固定化された静的なものであるが、コンピュータの進化がこれをアクティブにする。最初の進化は静的で一方向的な情報ソースから動的で双方向的なものに、次の進化はモバイルインターフェイスの進化による入力データの即時性と多様性から起こるだろう。


内発的動機づけは外発的動機づけに勝る。この本のテーマであるが、これだけ聞くと当たり前のように思える。しかし、一言で伝わる主張のためにわざわざ一冊の本は書かれない。

以前のエントリーで我々事業主がもつコスト感覚について書いた。
自らの行動コストと利益を逐一天秤にかけ、合理的で最善の行動をとろうとする習慣的感覚である。こうした行動の枠組みは従来の経済学では前提条件として与えられるものであった。つまり、人々は常に経済的利益を最大化する行動を選択するという前提に基づいて理論が組み立てられてきた。ブルーノ・フライが言うところのホモ・エコノミクスー経済人種ーである。

本書が引き合いに出す、報酬と処罰といった外発的動機によってモチベーションを維持する旧来のオペレーションシステム、モチベーション2.0はこうした発想に基づいている。

わたしはお守りのようなフレーズを見つけて試験に適用したおかげで、ロースクールを何とか乗り切れた。「完全に情報が公開され、処理コストが低価格の場合、当事者は、富を最大化する結果を目指して取り引きする」
それからおよそ10年後、わたしが多額の授業料を払い、懸命に学んだ内容の大半に疑問を投げかけざるをえないような、奇妙な出来事が起こった。2002年、ノーベル財団は、ノーベル経済学賞を経済学者でない人物に授けた。主な受賞理由は、人は必ずしも自己の利益を最大化することを目的に取り引きしない場合も多い、という事実を明らかにした功績だった。

その人物とはアメリカの心理学者、ダニエル・カーネマンである。カーネマンは『Thinking, Fast and slow』の著者で人間の行動の多くは無意識的判断(システム1)に寄り、意識的判断(システム2)は人間の行動を決める要因の一面に過ぎないとした。
この主張はシステム2、即ち合理的な思考によって行動することを前提とした従来の経済学に対しパラダイムシフトの可能性を示唆する程のインパクトをもっていた。経済学の常識が畑違いの人物によって覆されるのは痛快であり皮肉だが、同様なことはソロスからも以前より指摘されており、価格の均衡が合理的に決定されるという逸話に対しては現実に大きな資金を動かす金融の実践者程疑問を持っていたのではないだろうか。従来の経済学の理論が理想的な条件を基に考察されてきたのは多くの人が指摘する通りである。

さて、本書が主張する内発的動機付けのもつ優位性にまつわるフレームワークは他者をマネジメントする際に特に直接的に作用し得るし、実際に多くがそういった視点で書かれている。

21世紀は、「優れたマネジメント」など求めていない。マネジメントするのではなく、子供の頃にはあった人間の先天的な能力、すなわち「自己決定」の復活が必要なのである。

同時に、人は誰でも自らをマネジメントしているから置かれた環境によって野心の火種を絶やさないために回避すべき、または改善すべきチェック項目を持っていたい。本書はその助けとなる。


私はコントロールできないことが嫌いで、大抵のことは努力すれば変えられると思っているのだが出自や血縁関係だけは動かせない。例えば人間の脳は一般に3~5%しか使われていないので、サラブレッドでなくても人一倍鍛錬すれば競走馬になれるが農家の生まれでは貴族の血を引くことはできない。

私の育った家庭は高度成長期の終わりに東京のベッドタウンに家を建てたサラリーマンの家庭というある時代の典型的なパターンを踏んでいて、この事実はもちろん変えることができないし、どれだけ過去に遡っても自力では変えられなかったことだ。誤解のないように、変えたい変えたくないという話ではなく、どう努力してもコントロールできなかったものがあるということに過ぎない。

より広くはこの国この時代に生まれたことも変えようがないもののひとつであり、我々が高度情報化社会の時代を迎えつつあり経済的に豊かな日本という国に生まれたこの変更不可能な事実は逆説的に私達の境遇における変更可能な範囲を広げてくれていて、それはある意味で感謝すべき奇跡であり、同時にコントロールできなかったものである以上甘んじて黙認できないものでもある。


今は都心近くのシェアハウスに住んでいる。
理由は友人から借りていた家がもうじき売られるのでそろそろ出る必要があること、オフィスへのアクセスが近い場所に移動したかったこと、現在の仕事が終わる2月半ばから東南アジアに数ヶ月間行く予定なのでワンルームを確保するには半端であること、そしてこれからより一般化するのは確実であろうシェアリビングという形態を身をもって体験したかったことだ。現状では従来のタイプの不動産を複数人で暮らせるように家具等の設備を配置して貸し出すのがシェアハウス業の常道だが、これから先、家族でない人々のシェアリビングを前提とした意匠設計が広く普及するだろう。

もう10年近く一人暮らしをしていたので、ああそういえば実家に住んでいたときも形は違えどこうして共同生活をしていたんだなとそれが特別なことでないことを思い出した。実際住み始めても大きな違和感はなく、数日で慣れた。

私が利用しているのは都心で最大手のシェアハウス事業者が運営する物件のひとつで、山手線沿線を中心に全部で十以上の物件があるらしい。聞いた話では来年更に倍増するとのことだから成長産業であることが伺える。一年以上の利用ブランクがなければ、いつでも無料で物件や部屋を移動できるのが特徴で、仕事をする場所が仕事によって変動するようなワーカーには適している。業者所有の物件のうち3件を内覧し、その中で最も綺麗な物件を選んだ。オープンしたばかりで、私は入居者の募集が開始されて以来6人目の入居者となった。とにかく仕事に支障が出るような面倒なことは避けたかったので、ゼロから人間関係やルールを構築できる方が何かとコントロールしやすいという算段もあった。個室を含めてフルで入居して13人が収容できる。

快適なシェアハウス生活を送るために、今回の経験から感じたシェアハウス選びのポイントをひとつ挙げてみよう。それは生活のルールが運営会社によってどれだけ適切な細やかさで決められ、それが実際に遵守されているかである。運営会社によってというところが肝だ。なぜなら共同生活では自分の常識と他人の常識が異なる場面に出くわす度に妥協点を探らなければならず、その時運営会社によって予め明文化されたルールがあれば住人間での摩擦は起こりにくいし、たとえ納得のいかないルールであっても何かしらの感情の矛先は管理者に向くので、住人同士でのわだかまりもそれだけ減る。見える者への不満より遥かにストレスレスだ。多くの人にとって第一に守るべきは清潔さや安眠などの平穏が確保されることだろうから、特にそういった類のルールが適切に整備されているかを事前に確認しておくのがいい。この点について、幸い私が利用しているシェアハウスは課題はあるものの合格点と言って良さそうだ。


事業主とサラリーマンの決定的な違いはコスト感覚だろう。
フリーランスや経営者などの事業主は利益を計上するまで収入がないので労働密度を上げたり一切の無駄な時間を減らすことにインセンティブが働くのに対し、解雇されない限り毎月一定以上の収入が入ってくるサラリーマンには時間あたりの労働量を下げた方が費用対効果が高いので、同じ給与額であればなるべく働かない方が得というインセンティブが生まれる。
少なくとも我々のようにただ生きて時間を消費しているだけで金銭的コストという血を垂れ流し続けているといった感覚を皮膚感覚的に感じている人は給与所得者ではかなり希少ではないだろうか。生きている以上生活コストは刻一刻と発生し続け、その負の生産量と労働による正の生産量を逐一微分的に秤にかける思考回路が出来上がる。そしてあらゆるものごとをコストとリターンの枠組みで捉えるようになる。その時、言わば生産財は時間のみといった我々のような職業では特にコストの把握と時間感覚の相関が密になってくる。
血量が尽きることは何らかの助けがない限り文字通り死を意味するので、サバイバルである。私が利用しているオフィス施設の中で日毎に行われる様々な企業イベントでいつも受付に過剰な数のスタッフがたむろっているのを見るにつけ、正直手から銀砂が滑り落ちていくのを見るかのような惜しさやもどかしさを感じてしまうのだがこういう感覚を伝えるのはたぶん難しい。


いきなり話は変わって本の読み方には2通りある。
一つは手にとった本を作者の意図に従いはじめから行を追うように読むやり方。もう一つは自分の予めもっていたテーマや問いに従ってその答えを探すように読むやり方。前者は受動的な読書と呼ばれ、後者は能動的な読書と呼ばれる。
こんなことは古今東西の数多の書物に書かれているので、このブログの読者なら今さら何をか言わんやというところだろう。結論を言えば目標達成のための戦略的な仕事選びに欠かせないのは後者のような発想だ。達成によって今必要なものを埋められるような仕事をその時々で選んでいくのである。
信用を前提とした仕事には社会的責任が付きまとう。自分を鍛えるためにこれを利用しない手はない。絶対に達成しなければならないことと自分が求めていることが一致した時モチベーションは一段と高まり、また達成することで得られるスキルと成功体験は新しい高みに登るための土壌になる。


Money is Time 2

2011/12/15

<< Money is Time 1

人類は歴史的に、食うために働いていた時代に始まり社会システムの維持とモノを買うために働く時代(大量消費と記号消費の時代)を経ている。これからは余計な消費を減らしつつ、働かないために働く時代だ。ここで言う働くとはマネー、つまり時間を稼ぐことを目的とした行為である。金を稼ぐことが自己目的化すると働くことはゲームになるが、いずれそうした活動はゲーム以外の何ものでもなくなる。

人はまだ金銭的価値のついていないこと、例えば美しいものを生み出したり、愛する子供に愛情を注ぐことにこそ限られた時間を消費すべきであると気づき、働くことが善であるという価値観は薄れていく。このブログにしても本エントリーを書くことによって1円の利益も得ていない。そういう意味で、何世紀も前に中心都市の舞台として栄えたヨーロッパ諸国はたとえ金融危機に陥り破綻寸前になろうとも価値観の形成という点において成熟度が高いと言えるのもしれない。それが私が欧州に惹かれる理由だ。

 

システムによる解決は暮らしにとってなくてはならないエネルギーと食糧生産のさらなる効率化や、BIのような社会システムの整備を待たなければならない。今はある分野での卓越した専門性や分身となって働いてくれる何か(人、ロボット、コンピュータープログラム、動植物など)、あるいはスペインの街中で演奏する人達のもつ芸のような無形の資産を築くことが最良の策となる。


Money is Time 1

2011/12/14

時間と金は等価と言ってもいい。
外食をしたり交通機関を使ったり娯楽を消費したりといった消費活動はある意味時間を金で買っていることと同じだ。

外食は食物を育て収穫し調理する作業を外注していると言えるし、電車を使うのは別の街まで歩く移動時間の短縮分を金銭と交換していると言える。

特産品も最たる例だ。コロンブスが塩を王家に調達するためにインドを目指したように、流通が今ほど発達していなかった時代ではその土地に行かなくてはわざわざ行かなければ手に入らなかったし、あるいは手に入れることができる特権的な階級にまで上る必要があった。今は金で買うことができる。
金銭価値が高い高度な体験や物品ほどそれを自力で生み出すには時間がかかり、逆に言えばそういったサービスを金さえ払えば体験できる現代は一人あたりに与えられた時間が増加したとも言える。

こういうことを書き出すと延々と続けてしまいそうなのでまた続きはそのうち書くとして、高度情報化時代を経て労働の効率化に成功した人類は、与えられた有限の時間を増やす最後から二番目の方法として、今後いかに働く時間=時間を増やすための時間を減らしつつ消費活動のレベルを維持するかということに熱心になるだろう。
最後の方法とは生命活動の時間そのもの、つまり寿命を科学的な手法により増やすことである。


開発手法の効率化によるプロジェクトの製造サイクルの短期化と、有力なクリエイターの移動の活発化が相互依存的に高度化すると、地理的に分散してネットワークで版合わせをし製品を開発する傾向は今後ますます強くなり、情報漏洩防止への簡易的な解決への要求が高まる。
現在ではコンプライアンスの固い組織程、組織に情報と情報を扱う者を閉じ込めることで達成されているが、その方法に頼る企業は有力なクリエイターを確保できず優位性を失う。資本を投入し製造し市場に投じるまでの数週間から数ヶ月間の間だけクリエイターに与えた情報をコントロールすることが可能となるソフトウェアサービスが近い将来爆発的に普及するだろう。

そしてこれをきっかけとして分散型の製品開発は急速に発達し、移動インフラの充実化は加速され、移動型社会の夜明けが訪れる。


ネット上ではリバタリアニズム*が流行る。
インターネットメディアで影響力を持つのは卓越した個人であり、いかなる強制力も共同体としての利益も必要がない彼らから規制撤廃論が唱えられるのはある意味当然だからだ。
社会福祉は些細なものに過ぎず、たとえ警察がなくても民間のサービスで安全を買える経済力を持ち、各種団体のように組織的に政治力を行使できる立場とは無縁であり、なにより組織の歴史的な経緯による権益に頼らず個人の実力により力を手にしたという自負もある。だから彼らの利益を考えるといかなる規制を擁護する合理性もない。
彼らがそういった理由で規制撤廃を訴えていると言っているのではない。単にそうでないことのメリットがないし、ネットメディアの特性や歴史を考えれば動機として自然であるというだけだ。

 

ここまで当たり前と言えば当たり前だが、実は私達は規制によって守られている。最たる例は法律で、人を殺してはいけないというコンセンサスは罰せられるという強制力によって保たれている。仮に他者からの最低限の物理的な安全すら経済活動のみによって確保しなければならない場合、経済力も差程なく力の弱い老人は強盗され、若い女へのレイプは激増するだろう。
警察というシステムは法的強制との両輪で成り立っている。

現代の力は情報だから力の無い女子供や老人を暴力から守るのと情報弱者をマネーゲームによる搾取から守るのは同じだ。情報がない者から搾取し、破滅へと追い込むことを禁忌とするコンセンサスが、少なくとも今の経済システムが持続する限りは必要だろう。

規制=悪という風潮が蔓延するなら危険だ。

誤解されると困るので、私は規制撤廃論に反対しているわけでもないし、悪と呼べる規制は数え挙げればキリがないほどある。

だからといって人はなぜ殺してはいけないのかという命題に対し自分も殺されるリスクを生むからという問いは合理的でも、リスクがゼロなら構わないという理屈にはならない。

 

 

*リバタリアニズム
個人の自由と経済の自由を尊重し、政府の介入や社会的強制を否定する立場。リバタリアンとしてはミルトン・フリードマンやフリードリヒ・ハイエクが名高い。


アメリカの金持ち上位0.01%の所得は2005年の時点で平均的労働者の250倍であり、これは30年前の50倍という数字の5倍である。一方でアメリカ人労働者の賃金は安価な労働力の普及とともに1973年から下がる一方で、カリフォルニアの子供の五人に一人は貧困生活を余儀なくされている。

この数字からアメリカ内部で格差が拡がっていると言うのは容易である。では格差はこれからも拡大し続けるのだろうか、それとも収束し均質化に向かうのだろうか。

この分水嶺はあるマネーサーキットについて行き過ぎた金融システムを解除できるかどうかにあると思われる。現在の金融システムの問題点への考察は後ほど書くことにして、サーキットを支配しているのは銀行、保険、証券らの大企業でありこれらの金貸し業についてクリントン政権時代に緩められたような権限を再び制限しなければ、住宅ローン危機や日本の土地バブルのように、いい頃合いで抜けた者にババを引き受けたその他大勢の敗者の富が移転するような醜いゲームが繰り返されるだろう。ジョージ・ソロスもその著書の中で金融規制強化を訴えている。

 

一見時代に逆行するかのような反自由化の必要性は、知識がないために必然的にゲームの敗者となってしまう弱者が常に一定数いるという理由で人道的な立場からすれば免れない。自己防衛のための努力が足りていなかったのだから仕方がないと言ってしまえばそれまでではあるが、しかし夢を見せられた者が結果的に搾取され身包みを剥がされるような状況というのは醜いし、防衛できない多くの人の中に仮に知人が含まれるようなことがあれば嫌だ。
市場が完全でない理由はいくつもあるが最も根源的にはそもそも市場価値という尺度が完全でない点にあるように思う。人間が金銭的価値をつけることができているのは世の中の事象の一部に過ぎない。にもかかわらずGDPと幸福度がほぼ比例する世界はその脱却としての未来に人類全体が最低限の豊かさを手に入れることを見るべきだ。