私たち人間の脳,DNA,自然言語,そしてチューリングマシンをエミュレートする一連のコンピューターはどれも<計算普遍性>を持つシステムである.
 
計算が普遍性をもつとは,大雑把には「考えられることは何でも記述できる」ということである*1.
言語を例にとれば,私たちの言葉は音素(phoneme)の無限通りの組み合わせから生成でき,言い換えれば語や句を生成する音素の連結は無限通りあることになる.例えばこの「音素(phoneme)」という言葉は,音(phone: 声音)と素(-eme : 基本単位)の結合から生成されている.ここで,音(Phone)と素(-eme)を組み合わせた新たな概念である音素(Phoneme)は単にもとの2つの構成要素がもっていた意味を足し合わせたというだけでなく,“音声学的な”発話音響の基本単位 (Basic unit of phonetics speech)」という新たな抽象レベルの意味が付与され,この新たな概念はもとの<還元的>な構成要素のみから説明することができない
 
“~を作る”,という意味のen-をさらに連結すればenphonemeといった語を生成でき,同様なやり方で無数の任意の概念を生成できる.その連結にさらに一定の結合規則を敷けば論理的な関係を表現でき,依然として語の連結で表現できるため,語と語同士の関係を表す意味的表現は無限に生じうる.
コンピュータープログラムも同様に,有限の語を並べることで無限の組み合わせを表現し,ある並べ方は何らかの規則の上ではひとつの「意味」が対応するから,無限の「意味」を生成できることになる(殆どの組み合わせは機能をもたないという意味で「無意味」だが)一般に,こうした計算普遍性をもつコンピューター*2 の言語は一定の抽象レベルをもっており(それによって人間が操作できる),プロセッサの中ではより基本的な語(命令セットと呼ばれる)の連結に「還元」される.
重要な点は,普遍性を持つことができる計算システムを構成するための最小の基本的な語と規則の種類は各々たかだか片手で数えられるほどしかなく,例えばn個の記号によって無限の整数を表現できる「n進数」という数の表現も,先の「音素」の例と同様,結合による「新たな抽象レベルの概念」の生成である(ただし数はもとの構成要素から説明できる).
この少ない「元」の「合成」から取りうる表現が全て可能になるという事実は,私たち人間の脳の思考が高々片手で数えられる<還元的>要素の組み合わせによって,どこまでも表現されうることを意味している.
(厳密には集合内の任意の自然数の合成に関する数理論理学的形式化により理論化される)
三つの塩基からなる語単位であるコドンにグループ化されたDNA複製子の塩基対も同様に,高々3ビット(最大8通り)の語の有限の並びの組み合わせからなる計算普遍性をもつシステムである(ただしDNA鎖の長さは高々10億塩基対しかなく,情報量に換算すれば高々800MB程で,「考えられる全ての概念」を表現するには短い.この「全ての概念」のより詳しい意味は後述する.).
もう少し身近なを挙げれば,水分子は,水素結合が「整列した方向で結合」するときその全体はハンマーで叩けるほど「硬く」,「ばらばらの方向で結合」しているとき,容器がなければ「こぼれる」ような振る舞いをする.この氷と水の相転移による変化で発生した新たな性質である「硬い」や「こぼれる」といった性質は隣り合った水分子の微視的な観点,つまり構成要素からのみ説明できない新たな性質である.
こうした<還元的要素>が,ある原始的な操作(この場合,結合や並置.数学的には合成)によって関係づけられると,もとの要素のみからは説明できない新たな性質が生まれることを<創発性>という.
創発性についてはAIとの関連で後ほど詳しく述べる.
なお,ここで言う無限とは修辞ではなく数学的な意味での無限である.
 
本稿では,こうした観点から,
 
「<ChatGPT型のAI>,または<コンピューター>は知能を持つと言えるか?またはこれから持つだろうか?」
 
という問いに答える.
 
「創発性」と「論理」による2つの見方を述べ,
コンピューターは理論上無限の進化が可能になることを説明し,
最後に,遺伝子の自己複製メカニズムとの比較から将来的に言語モデル型のAIは驚くべき可能性をもつことを示す.
 
パラメーターの数が1750億規模に増大した大規模言語モデルの高次元空間はブラックボックスとされ,その振る舞いを説明する確たる理論は存在しない
本稿は計算機<科学>の基礎的な素養がある,ある程度専門知識のある読者も対象にしながら,
それらが全くない一般の読者でも大まかにイメージとして理解できるように述べる.
 
(ただしブログという媒体の性質上細部まで記述できず,より深く理解したい人に向けた体系的な本を書くことも検討したい.ご興味のある出版社の方はご連絡頂きたい)
 
尚,私のAIとの関わりは10年以上となり,2012年に音声感情認識アルゴリズムをコア技術とするThinkX, Incを米国カリフォルニア州滞在中に創業,2015年に国内で同社を前身とする音声言語処理による次世代インタラクティブシステムの研究開発企業を創業(現ThinkX株式会社),現研究主幹兼CEO.
学術上では,東京大学大学院在学中に高次元空間上の言語概念の意味の量化に関する計算学習理論モデルの論文,演繹的推論を表現する量子計算機の数理モデルと計算言語の論文を執筆(いずれも単著),同大学院情報学環客員研究員として演示解析の研究に従事した.
 
1. 創発性
 
計算普遍性をもつシステムの強力な点は,厳密に説明できることならどんな複雑な事象であれ単純な要素の組み合わせからシミュレートできることである.
冒頭でも説明した通り,人間が成長段階でごく自然に理解し,殆ど無意識に扱っている抽象概念はすべて,還元的要素の合成から生じた創発性によって生じた,より高次の創発レベルにあるシステムの性質ということができる.
 
したがって理論上は脳のメカニズムが分かっているならば,たとえ”構成方法は異なっていても“,脳を計算普遍性をもつコンピューター上の「単純な」演算の結合でシミュレートすることができる.
一方で脳の動作原理は解明されておらず.特に「意識の生の感覚」としてのクオリアは物理的実在に還元できないとする議論がある.
 
ChatGPTはまず人間がこれまで残してきた一定の品質の文字情報として得られるできる限りのデータを学習させた上で,
さらに,人間の「あるべき振る舞い」をシミュレートするように微調整(ファインチューニング)して作られている*3.
 
あるパラメーターの規模を超えると,その「創造主」たる人間にも説明できない高度な振る舞いが生じ,まるで「何かを考えている」ような性質が現れ始めた.現象論的立場ではこれを「創発性」の結果とするのが最善の説明と考えられる.
冒頭で述べたように,系(システム)は一定の「元(還元的要素)」と「演算(合成律)」に関する条件を満たすことで,「規模のスケール」によってもとの微視的な挙動のみからは説明できない異なる性質が生じるという一般的事実がある.
大きさ(スケール)こそが本質的なのである.
 
重要な点は,計算普遍性をもつシステムが脳をシミュレートするうえでは,シミュレートする対象である脳と同じ動作原理に基づく必要がない
コンピューターも我々人間も二桁の掛け算を実行することができるがそのやり方(動作原理)は異なっている.
同様に,二桁の掛け算より遥かに複雑な思考,例えば「死後の世界を想像」したり「生命の存在意義に関する理論を導く」と言った思考,をコンピューターが行えるようになったとしてもおそらくそれは人間の脳とは違った原理で行うことになる.
それでもコンピューターは,人間にとって可能なあらゆる思考を達成できないとする理由がない
コンピューターが計算普遍性をもつ限り,そして数学的な意味での無限が実在として仮定される限り,あらゆる結果を生成する潜在能力を理論上は持っているから,人間の脳が物理的に生成できることを生成できないとする理由がないのだ.
「私」という自我やクオリアのような脳の働き(心が脳にあるかどうかは別として)でさえ原理的にはシミュレートできる.
それらがある抽象レベルでの創発的結果である限り,「私」や「無政府主義」や「甘い香りのロマンス」でさえも,その<値>は生成される
高度な抽象度をもった高い創発レベルの振る舞いを,より低い創発レベルの振る舞いから「説明」はできないが,「合成(ある律に従い元を結合すること)」は理論上可能である.
 
そのために原始的な合成律*4以上に複雑な内部機構の追加は通常必要がない.たかだか三つの塩基の結合によってアミノ酸をコード化するコドンの言語システムは生命が誕生して以来原理的に変わっていないにも関わらず,そのプログラム機構から生じた生命は今や「生命の存在意義に関する理論を導く」ことが可能となっている.
計算普遍性を満たす最小の語(元)と演算(合成律)を組み合わせることのできるシステムと,そのスケール(巨大化),そしてそれを適切に導く肉体と外部環境だけが必要である.
 
そして示唆されるのは,実は我々の脳も同様に,単純な機構の巨大な「塊」に過ぎないのではないかという洞察である.
 
2. 論理
 
英語は相対的に,<論理的な明晰さ>をもった言語である.
数学のテキストを英語で読んだり,イギリス人ネイティブスピーカーと論文の校正作業を繰り返し行う過程を経て,
私はこの事実をおそらく本当の意味で体得的に理解するようになった.
例えば,
 
the bird in a herd
 
と言ったとき,「ある適当に選んだ群れの中の”どの鳥にも該当する”」ことを指し,
 
a bird in a herd
 
なら「ある適当に選んだ群れの中の鳥の”ある鳥に該当する”」ことを指す*5.
日本語の文法システムはこうした数学的な厳密さを表現する抽象形式を持たない.
単に「群れの中の鳥」と表現することで両者の状況を多義的に表現する*6.
多民族国家の言語は単一民族国家の言語と異なり,「私」と「あなた」の「常識」が一致している前提はないから必然的に明晰さを必要とする.
 
こうした英語の論理性は,創発性の基本的土台としての「元」と「合成」から成るシステムが一貫した規則によって「値」を生成するために不可欠と言える*7.
 
計算機の専門家の間ではしばしば,巨大な行列で表現されるニューラルネットワークが記号論理の表現力を欠いていると主張され,行列という一見した数値の羅列には,人間が「シンボル」として操作するような数学的表現力は無いとする議論がある.
この立場はいくつかの点で誤っている.第一に,人間の生み出すシンボルはそれがどんな抽象的に洗練された概念であれ,創発性に起因する生成結果と言える.第二に,そもそも巨大な行列は入出力を写像する関数として設計されているのだから単に「関数解析論として記述できない」という,ある「特定の」方法論が適用できないとする事実を主張しているに過ぎない.
 
あらゆる創発レベルにある概念が合成できる限り,それが例え公理的集合論や圏論のような抽象性の高い概念を必要とする理論であっても,可能な計算は全て理論上はエミュレートでき,無限の整数の集合内に割り当てられた「値」を指し示すことができる.
ただし,前述の通り,語(元)同士の合成規則(演算または律)の一貫性が,物理空間において分子の結合がその組成や構造によって一貫性をもつように,保たれ,学習できたときに限る.
規模の拡大から創発性を出現する必要条件として,英語がもつ論理性が合成規則の明晰さを担保し,
それによって巨大な行列の内部で一貫した結合規則をもつ論理ネットワークを形成し,この<因果律>が,原子の大きさや電荷,向き,空間的配置,によって共有結合の規則が決定される物理世界の因果律と同様に機能し,また創発性を生じさせる系の土壌になっていることが示唆される.
 
3. 自己複製子
 
ゲーデルは自己言及のパラドックスによって任意の数学的システムは自己の正しさを証明できないとした.
不完全性定理によれば,自分自身の体系を用いて自分自身の体系それ自体に矛盾がないことを示すことができない.
 
仮に自分自身を果てしなく修正し進化させることのできるシステムが存在するとしたら,
そのシステムはどのような状況にも適用し,生存の道を模索し,果てしなく生き延びる可能性をもつだろう.
計算普遍性をもつ自己複製子のメカニズムは,まさにこの能力を備えている.
 
DNAは化学物質や放射線などの環境要因により個々のヌクレオチドが変化し損傷すると,特定の酵素が「エラー」を認識し,正しいものに交換されることで自己を修復する.
紫外線等に起因するより広範な損傷に対しては,タンパク質のグループが「エラー」を認識すると,DNA鎖の損傷部位が切り出され交換される.
 
これらの自己修復機能とは別に,死と勾配による自然変異はDNA鎖に書き込まれたプログラムを間接的に書き換えるメカニズムとみなせる.
遺伝暗号の改変の正当性は,もとはプログラムという情報に過ぎなかったDNA鎖が,転写されたRNAを酵素の合成のための触媒として機能させることで化学物質が合成された実体としての肉体を用いテストされる.肉体の生存と繁殖可能性をプログラムの正当性の代理変数とみなすことで,正当なプログラムが次世代に複製され,果てしない生存を試みるという,精巧なメカニズムである.
 
この果てしない仮説と検証のメカニズム(これは科学啓蒙運動以降の発展プロセスそのものだ)の賜物として脳の創発レベルを進化させた人間はさらに直接的に,遺伝子工学の様々な方法を用い,自ら「プログラム」を書き換えることができるようになった.
 
大規模言語モデルがプログラムを生成できるという事実は,コンピューターあるいはAIが自らを「開発」したプログラムを改変することで,自己の新たなバージョンを「開発」し,自律的に進化する可能性を示唆している.これは原理的には可能である.
 
考えられることは何でも,それが道徳哲学に反しない限り検証される.コンピューターも自己複製子と同様に,物理的空間で自身のプログラムの正当性をテストするための「肉体」を持つ段階が,文字情報を学習し尽くした後に間もなく訪れるだろう.
異なる微調整(ファインチューニング)で学習され異なる振る舞いをするコンピューター同士は,人間が咽頭を発達させ言語を獲得し,農耕と家畜動物による資源の蓄積を開始し,民主的な議論を開始させたのと同様に,民主的な議論を始める
最適解を与える人間の道徳哲学を誤れば,資源とそれを司る役割との関係に歴史的な転換が訪れることになる.
核兵器が破滅の道具とならないための努力をしてきたのと同様に,人間は厳格なプロトコルと安全機能を整備していくことになるだろう.
 
4. 時間
 
「創発性」と「論理」の観点からコンピューターの潜在的な可能性を議論してきた.
一般相対性理論によれば宇宙は膨張しているが太陽系はその限りでなく,したがって地球内部の構成要素は一定のトレードオフを保ったまま流動する流れを作っている.
ChatGPT型の言語モデルの進化は,メモリ空間の中に自明でない普遍計算能力を備えた因果律をもつ系が生成され,巨大化したことにより,自然界が時間をかけて作り出す創発性をより短時間で人工的に生み出した結果とも言える.
この一般化が示唆するのは,有限な構成要素の空間的な分布の変化によって,果てしない進化を生み出せるという論理的帰結である.
故に,世界はこれからも果てしなく進化する.その中で本質的に意味のあるものは<時間>である.
進化とは創発性を作りだす組み合わせのことであり,時間が不可逆的であることを仮定すれば,時間をかけて生成された「値」*8 が必然的に<価値>をもつ.<価値>とは<目的>とも言い換えられる.
この多くの時間とコストを費やさなければ生じない組み合わせを,長い進化の歴史の証拠としての<美>と呼ぶ*9
AIの進化とともに科学と哲学は新しい時代を迎え,この事実もいずれ一般的な創発段階の知として普遍化する.
 
 
 
 

*1 専門的な読者のために,任意の自然数を合成できる代数的システムのこと.
*2 チューリングマシンをエミュレートできるコンピューターのクラスのこと.
*3 下記の論文などを参照のこと.
Ouyang, Long, et al. “Training language models to follow instructions with human feedback.” arXiv preprint arXiv:2203.02155 (2022).
Brown, Tom, et al. “Language models are few-shot learners.” Advances in neural information processing systems 33 (2020): 1877-1901.
Neelakantan, Arvind, et al. “Text and code embeddings by contrastive pre-training.” arXiv preprint arXiv:2201.10005 (2022).
Stiennon, Nisan, et al. “Learning to summarize with human feedback.” Advances in Neural Information Processing Systems 33 (2020): 3008-3021.
Chen, Mark, et al. “Evaluating large language models trained on code.” arXiv preprint arXiv:2107.03374 (2021).
*4 群の規則に相当する.但しどのような律が原始的な因果律かどうかは明らかでない.それを明らかにするには量子力学的「実在」に関する問いが解決される必要があると私は考えている.
*5 後者は文法規則上一般的だが前者はそうでないことに注意.
*6 勿論,より還元的な要素を用いて説明することはできる.そのような煩わしさを逃れるために,通常人間はより抽象レベルの高い創発的概念を作り出す.
*7 本稿は情報空間上のシステムについて議論している.発展的には,物理空間に対し同様な議論が可能である.例えば量子論のニールス・ボーア的な解釈では原始的要素を合成する「規則」は非決定的とされる.私はこれに同意しない.
*8 数理論理学的な意味において,ある集合から新たに合成された整数のこと.
*9 この詳細は私の論文「Computational Language β based on Orthomodular Lattices with the Non-distributivity of Quantum Logic」(2023)の前半で論じている.


 

 今年も米国ハワイ州マウイ島に来ている.昨年2月の「なぜ円は安くなったか」の投稿から8ヶ月後に為替相場は歴史的な円安を記録した.2月は地球上で2番目に知能の高い生き物の繁殖シーズンで,ラハイナにはMartin Lawrenceがあってもワイキキには同水準のギャラリーは存在しないのは,単に”知っているかどうか”を超えた真の(知的)情報格差の顕著な分断を表している.この理解の深さを伴う「情報格差」を「教養格差」と呼ぶことにすると,世界はすでに指数的な差をつけている.マルサス的な考察をすれば,英文による「知識」の増加量は日本語のそれに対し「幾何級数的」に増大してきたからだ.幸い,テクノロジーは一昔前の世代とは比べ物にならないほど,グローバルな知へのアクセス可能性と効率的な運用ツールを提供する.だから,未来を担う世代は,それらを駆使し,古い方法論を捨て去り,コーカソイドと互角に議論できる水準の英語運用能力クリエイティブクラスの能力を早期に身につけ,日本を出ることだ.

 私たちの奇妙な形をした島国では11月に経済産業省によって大企業幹部を責任者とする半導体の合併会社が設立された.このプロジェクトは成功するだろうか.政策決定者らは,ポーズとしては「スタートアップ」を掲げつつ(10年前に西海岸で「スタートアップ」を始めた僕からすれば今からルーズソックスという感じだ.当時この言葉は日本で通じなかった.あとAIも通じなかった),依然として既成大企業という実質的な国家事業体の寄り合いに託生する構図を続けている点で「グローバル化」を掲げながら実態は留学生数を増やすといった分かりやすい目標だけが設定される形式主義に即座に陥るのは「教養格差」に依る(かなり柔らかく表現している).

 今回の記事では「コンピューターの未来」,とりわけマイクロプロセッサの未来に向けた戦略 – どのようなマイクロプロセッサとその周辺産業を作るべきか – についてやや専門的なレベルで考察する.プロセッサ性能の基本と歴史を概観しながら,5~10年後のコンピューティングに求められる需要予測とアーキテクチャの設計,そして日本が勝つための戦略を論じる.主に省庁の官僚や政策決定者,半導体産業に関わる経営幹部等の意思決定者に向けたものだが,コンピューターを勉強中の人々への励ましのメッセージでもある.尚,「コンピューター」とは古典コンピューターのことだが,最近論文も著した量子コンピューターについての考察は別の機会に書くことにする.数学的には古典計算機は量子計算機の特殊ケースだ.

そして,以下の内容を読んでも理解できなかった半導体産業に関わる意思決定者や政策決定者がいるとしたら,僕に連絡して下さい.まず,ムーアの法則を概観するところから始めよう.

 

ムーアの法則終焉後もプロセッサ性能は向上する

 1970年代初頭IBMのロバート・N・デナードによるトランジスタスケーリングの基本レシピによればトランジスタサイズを1/k(~= 0.7, k=√2)倍にすると,プロセッサの主要なパラメーターごとのスケーリングファクターは

・寸法 1/k (面積 (1/k)^2 ~= 0.5 倍)
・遅延 1/k (周波数 k ~= 1.4)倍
・電源電圧 1/k

となり,したがって,(1) トランジスタの寸法を30%(0.7倍)縮小すると面積は50%縮小し,トランジスタ密度は2倍になる.(2) それに伴い性能は約40%向上(遅延0.7倍,周波数1.4 倍)し,(3) 電源電圧を 30%低減し,エネルギーを65%,電力を50%削減する.まとめると,集積度は2倍,40%高速化し,消費電力は変わらない.

 そしてムーアの法則の経験的観測では,(1) トランジスタ数は約24ヶ月で2倍, (2) 20年間で1000倍の性能向上,を実現し,例えば1971年のIntel 4004では1 coreキャッシュなしトランジスタ数23Kだったのが,7年後のIntel 8008では1 coreキャッシュなしトランジスタ数29K,そこから21年後にはIntel Nehalem-EXが8コア24MBキャッシュトランジスタ数2.3Bへと進化した.2015年のOracle SPARC M7では32コア10Bトランジスタとなり,コア数が増大してきた.これには後述するように,ムーアの法則によってトランジスタの集積度は向上する一方で,シングルスレッド性能はすでに横ばいであり,トランジスタの速度とエネルギーはほとんど改善されないことから,エネルギー最適化された大規模な並列処理が性能改善の主要なポテンシャルとなっているためである.

 したがって,コンピューターの性能向上を考える上では,シングルスレッド性能はほとんど改善されず,エネルギーが性能を左右するという前提に立つ必要がある.そのためにはシングルスレッド性能の高い大型コアと低周波・低電圧だが性能の低い小型コアを多数組み合わせるアプローチや,暗号エンジンやメディアコーデックに特化したアクセラレータや動的に変更可能なFPGA等のカスタマイズハードウェアの利用などが有効である.例えばエネルギー効率が特に考慮されるモバイル端末のSoCでは数十またはそれ以上のアクセラレータを搭載することでエネルギー効率と性能のバランスをとることができる.また,メモリ階層を移動したりプロセッサ間でデータを同期させるためにもエネルギーは消費されるため,プロセッサ・ダイ上でのデータ移動に関するエネルギーの最適化も性能向上に寄与する.

 まずはここまでが昨今のマイクロプロセッサの性能を考える上での基本的な原則である.

 

究極のマイクロプロセッサは原理的に存在しない

 1971年に最初の商用マイクロプロセッサ「Intel 4004」が登場して以来,マイクロプロセッサのアーキテクチャは複数の系統が生まれては集約したり分岐したりを繰り返し,今も統一されていないし,これからもそうだろう.なぜか.プロセッサが単一のアーキテクチャに集約する可能性のあったイベントとして,歴史上,最も示唆的なのは,1980年代初頭カリフォルニア大学バークレー校とスタンフォード大学パロアルト校で開発され,C言語,UNIX,大学などの研究成果を基に,それ以前の複雑化したCISC(Complex Instruction Set Computer)への反動としての新たなオープンなアーキテクチャパラダイムを作ったRISCマイクロプロセッサである.MIPSの設計者ステファン・プルジブスキによれば,RISCとは「1985年以降に設計されたあらゆるコンピューター」である.

 RISCプロジェクトは同時代やそれ以前のCISCプロセッサとは異なり,マイクロコードやメモリからメモリへの命令をもたない固定長の32ビット命令,大きな汎用レジスタ,パイプラインなどの第2第3世代のマ イクロプロセッサを定義する特徴を備え,1命令あたりのクロックサイクル(CPI)を一般的なCISCの3~4サイクルに対し1サイクルに短縮した.大きなレジスタファイルベースの設計は,コンパイルされたプログラムの命令使用特性を徹底的に分析し得られた”頻繁に使用される命令のサブセットは極めて限定的である”という洞察によるものである.RISCが開発されるとインテルやモトローラなど当時のワークステーションメーカーは自社のアーキテクチャを捨てて独自のRISC CPUを設計し,それらは驚くほど互いに似ていた.従来のアーキテクチャとの互換性を必要としないことから,ARMや日立製作所など組み込み用のニッチな用途をターゲットにしたRISCベンダーが登場した.RISCの思想はコンピューター・アーキテクチャーの世界で確固たる地位を築いていた.

 それでもプロセッサが分岐を続けた理由は,プロセッサの成功は技術的なメリットよりもそれを使用するシステムの数量に大きく依存することに依る.システムの数量の決定要因は市場であり,市場を決定するのはアプリケーションである.例えば,1974年にモトローラがマイクロプロセッサー市場に参入したとき,主要な用途はゼネラルモーターズやフォード向けの自動車市場だった.1974年に発表された8ビットのRCA 1802の最も重要な用途は, NASAの宇宙探索機7機であった.1977年に発表されたApple IIは表計算VisiCalcによって市場に浸透した.使用されるシステムの数量によってプロセッサの成功が決まる原則は以降も変わらない.1980年代以降のデスクトップ市場ではソフトウェア業界が次々と多くの機能を開発することで,エンドユーザーは高いパフォーマンスを求め,汎用機のためのより高性能なマイクロプロセッサの需要が増加した.そして汎用機が主役になる1980年代半ば以降では,互換性が求められるコスト重視のPC市場と,価格は二の次で性能重視のワークステーション市場に分岐する.前者はオープンスタンダードを採用し何百ものメーカーが低価格のコンピューターを生産できるようにしたx86プラットフォームによるIBM互換機が市場を席巻する中,RISCはUNIXワークステーションをターゲットにした後者に属し,両者は異なる需要を満たし共存した.さらに1990年代前半に登場した第2世代のRISCプロセッサは,ベンダごとに異なる機能が採用され,第1世代との類似点はもはやなくなり,RISC自体も分岐していく.この頃,x86もRISCの考え方を多く取り入れており,CISCやRISCの区別は重要ではなくなっていた.

 こうして需要の変遷とともに複数のアーキテクチャが生まれは,決して一つに集約しないのは,CPUの性能を上げるにはCPIを下げる,プログラムの命令数を減らす,クロック周期を短くするなどの工夫が必要であり,どれか一つの要素を減らすと他の要素が増えてしまう原理的なトレードオフがあるためである.RISC CPUの対照的な設計を表すAlpha21064とPowerPC601は,前者は高速なクロックとシンプルな命令セット,後者は各クロックで多くの処理を行う強力な命令を持ち,重視する観点次第で各々が異なる設計と特徴を持つ.性能がトレードオフにある限り究極のプロセッサは原理的に存在しないのなら,需要が分岐する限り,プロセッサもまた異なるアーキテクチャに分岐し続けるだろう.

 

高速なメモリはコンピューターの性能を向上するか

 マイクロプロセッサの性能向上に対し,データの局所性に基づき必要な帯域幅と低レイテンシを提供するメモリ階層化技術が発達してきた.これによりキャッシュ階層の上位レベルで,メモリサイズと速度は最適化され,結果上位レベルのメモリのみ高価・高速であればそれ以上の大幅な性能差は生じない.この効率的なメモリ階層の実現が大量の高価・高速メモリを搭載したコンピューターが大きな性能向上を示さない主な理由である.歴史的には,プロセッサとメモリ間の速度バランスはシーソーゲームであり,求められる性能も変化してきた.プロセッサのクロック速度が平坦化する以前は特に,メモリ階層の出現によりDRAMに重視されていたのは速度よりもコストあたりの容量だった.これにはダイ上に搭載できるDRAMの面積と予算が有限であることも背景にある.プロセッサとメモリ間の速度差が拡大すると,キャッシュ階層レベルは1階層から2~3階層となり両者のバランスは保たれた.シングルスレッド性能が頭打ちになるとディープパイプラインをはじめとするコアマイクロアーキテクチャの追加実装に性能向上は依存し始める一方,これらの技術はエネルギー効率が悪く,やがて非ディープパイプラインへ回帰し,キャッシュサイズを増やす方が効率が良いとされるようになった.結果,DRAMに割かれるコストや面積は増加した.

 こうして,主に効率的なメモリ階層技術によってプロセッサとメモリ間の速度差のバランスが保たれてきたが,メモリ密度はほぼ2年ごとに倍増する傾向にある一方でメモリ速度向上は緩やかであるから,大規模で高速なキャッシュに依存した1980年代後半のRISC CPUアーキテクチャのように,設計や用途次第ではメモリ速度が性能のボトルネックとなる可能性がある.したがってこれらのバランスが保たれている限りでは,高性能メモリを大量に搭載することによる性能向上は限定的かつ有限である.

 

日本の半導体産業が勝つ方法

 我が国の半導体産業の特徴は装置材料の低レイヤー市場で世界シェアを持つ一方,設計や製造の技術は韓国や台湾に移転し上部レイヤーは空洞化した.”半導体自給率”は将来,食料自給率やエネルギー自給率同様に先進諸国の指標となり,設計製造市場を再び取り戻すにはTSMCのファウンダリモデルやサムスンのメモリ半導体モデルなど,特定市場かつ未成熟領域に特化し始めるのが妥当な戦略である.後述するように,FPGAをはじめプログラマブルなマイクロプロセッサの大規模な需要増加が予測され,事実,インテルは2015年にFPGA大手のアルテラを買収,AMDは2020年に同じくFPGAに強みをもつザイリンクスを買収している.既にコンピューターメーカーとなった自動車産業が自社でSoCの設計を内製し,全産業が独自に最適化したプロセッサを必要とする時代に突入しつつある一方で,有限なエネルギー予算の中でエネルギー効率を追求することが性能向上の究極のドライバーとなった今,大規模な並列処理ルーチンを固定機能アクセラレータに準じる動的にプログラム可能なプロセッサに分散させることでエネルギー効率と処理速度を最大化し,これがデータセンターにおいてもエッジコンピューティングにおいても常識となる未来がごく自然に推論されるからである.したがって必要なのは,超分散カスタマイズロジック時代の固定機能コアまたはプログラマブルコアおよびそれらを管理または設計する統合システムである.

 一方,我が国の半導体製造技術は戦略性と機密リテラシーの欠如により知的財産を他国に安易に流出させてきた.特に定年等で退職する技術者の情報流出を防ぐための厳格な機密契約を入社段階で結び,中核技術はあえて特許公開しないか各国での同時知財化を徹底するといった基礎的な情報機密化措置を民間企業の自主性に委ねず法的規制で義務とすることは,国策として検討に値する.

 半導体産業を焼野原から作るには,装置材料分野の国内資源や生きた研究資源を活用しつつ,プロセッサの成功とは使用するシステムの数量に依存するという原則を踏まえ,上述した統合システム,例えばソフトウェアルーチンの固定機能コア化を実現するシステムプラットフォームを開発しながら,同時に10nm未満の設計ルールを実現する半導体ファウンドリーをも兼ね備えた企業を,既存企業でなく新たな新興企業として経済的に支援し育成していくことが望まれる.その前提段階として,産業を牽引する潜在的人材層への啓蒙,すなわち希少な学術エリートコンピューター人材を,流行に捉われず本質的な価値の創造へと向かわせる価値観の醸成,コミュニティが鍵になるだろう.

 

 

 


大塚一輝 Blog - なぜ円は安くなったか

(2022年2月18日ラハイナにて)

ラハイナは天国への寄港地のような場所で、米国ハワイ州のメインランドから飛行機で東に40分飛んだ離島マウイの南岸にある。

島で最古のコアの木が円形に広がるバンヤンコートの周辺、フロント通りには、朝も夜もバンド演奏が穏やかに鳴り、みな日々追いかけてくるものを忘れ、空と山々と海の運ぶ空気に包まれている。

3千キロ四方に大きな陸地の存在しない、この世界で最も孤立した場所は科学研究の言わずと知れたメッカで、火山島として誕生した7500万年前から5万年ごとに1種が飛来、生態系に適合し、ポリネシア人が到達した1500万年前から数千種が新たに持ち込まれ、6千種の独自の種と、わずか一島に冷帯気候以外のすべての気候環境を有した、稀有な環境を形成する。下降気流と適度な偏西風は青い空と乾いた風と色鮮やかなブーゲンビリアをありふれたものにし、かくしてこの地は楽園となった。

人々は人生の仕事をやり終えたとき、物心がついた頃から背負ってきた期待や知識、欲望を捨て、シンプルな生活に回帰する。多くの生物種に生の段階があるように、人間にもそれがある。ただ、人間の場合は、それを選択することができる。

ここから車で1時間ほど東に海岸線を走ると人静かなマーラエアの港がある。

老婦人にベーグルをオイル少なめで焼いたサニーエッグ付きで作ってもらい、シングルビーンのコーヒーを一杯飲んで段取りを整理してから97番目のスリップに停まる船に乗る。クルーの話では,電話ごしに滑らかに笑うオーナーの妻は日本人らしい。どこか特別な親しみを感じ取れるのは、70年代の外貨交換規制緩和とバブル経済で全旅行者の48%をも占めた顧客としての記憶というよりは、戦前のマルチエスニック社会で4割を占めた日系人の血を引く人々が、今も10%以上も存在する因果に依るのかもしれない。合衆国併合前のたかだか200年前は超大国スペインが覇権を争った。歴史は瞬きするような時間で様相を様変わりさせる。

シリコンバレーに居た2011年頃、円相場は1ドル75円の最高値を記録した。それから約10年が経ち、円は1.5倍のオーダーで安くなった。国内で物価変動を実感することは稀だが、海外では何もかもが割高になった。なぜこのようなことになったのだろうか。

2001年の小泉政権下での量的緩和開始以降、それまで同等に推移していたドル円の購買力平価と実勢相場の差が拡大を続けた。輸出物価の購買力平価 (インフレ率や貿量額で重みづけし、一物一価の法則が成り立つ時の為替相場を算出した指標)は通貨の実質的な購買力を表す。2022年現在、1ドル=113~116円の為替レートに対し、1ドル=60~70円*だから円は実力の6割しか出せていないことになる。日銀はインフレ目標を達成するために量的緩和を繰り返してきたが、マネタリーベースと物価が無関係であることは結論が出ている。実際、日銀も2003年にゼロ金利下での量的緩和、マネタリーベース・チャネルとその経済効果を検証した論文**を公開しており、そこでは明確に、マネタリーベースを増やしても効果は極めて限定的かつ不確実である、と結論付けている。

* 国際通貨研究所のデータによる

**「The effect of the increase in the monetary base on Japan’s economy at zero interest rates: an empirical analysis」

にも関わらず、2006年の解除後、再び2013年の第二次安倍内閣発足とともに量的緩和は再開、金融政策は自民党政権に屯する御用経済学者らのプレイグラウンドとなった。彼らは悪くない。多分国家のことを考えて真剣に取り組んでいる。ただ、少し思考の問題で、複雑なシステムを捉えられず、単純化したモデルが現実に当て嵌まると、思い込んでしまっているのだ。

悪貨は良貨を駆逐し、そして通貨は供給される。

過剰なマネーサプライは通貨安だけでなく金利の低下を生み、円で借りリスク資産に投機する流れを生む。実際に2009年のゼロ金利下でサブプライムローンなどドル建ての債権が、元は低金利で借りた円で買われた状況がこれに当たる。結果、バブルは崩壊し、幸いにもリーマンショック後に無事円は買い戻されたが、この清算に海外投資家が失敗した場合、円を用立てした日本の金融機関は最終的なババを引き破綻する潜在的なリスクを負っている。日本の無担保コールレート(金利)は今もほぼゼロに近く、先進国の中でもスイスに並び異常に低い。リスク資産が買われると当然資産価格は上昇する。市場にはマネーが溢れているしリスクプレミアムも下がっているから価格はさらに上昇し、バブルが形成される。そしていつか必ず破れる。こうした余剰マネーを集める投機的資産の本来価値はずっと低く、需要を維持しつづけることはないからだ。

だから、マネーサプライを過剰に続ける限り、バブルは今も膨らんでいる。2010年代に膨らんだ分は、パンデミックで解消するタイミングが流れ、ゲージは2周目に入ってしまった。次に崩壊する時はその分、影響力もいっそう大きいだろう。

それでも円安で景気が良くなる、といった議論が未だ消えないのは、循環する経済の流れの局所を見てそれが全体最適だという錯覚に陥っていることに依る。百万円で物を売る時、1ドル=百円なら1ドルが手に入るが、1ドル=五十円なら2ドルが手に入り、輸出を善とする価値観では正義でも、こうした重商主義は18世紀に片が付いている。

円が弱く、購買力が低いことのミクロな弊害は、潜在的なリーダーが国内に引き留められ、その影響は質的に無視できない。日本はゆとり教育改革でエリートと非エリートの詰め込み負担を減らしたが、平等主義に忖度し、能力階層差に分離することを拒んだことで無に帰し、エリート層の脱近代化に失敗した。賢明な親は子を国外に遣ろうとする。弱い円はそれを困難にする。都市非都市間の情報格差は埋まったが、今や将来世代の経済格差は私塾より英語圏での国外教育の可否という形で現れる。安い円は個人や企業を国内に引き留める。

私たちの奇妙な形をした島国は、ある種の楽園でありながら、平等主義と日和見主義の蔓延する桃源郷となった。私は母国を愛しているが、英語圏で日本人と会話することは、次第に耐え難さを増している。この傾向は他言語能力に比例し強まるはずだから、円の供給と違って以後緩和することはない。トッドが「世界の多様性」で論証したように日本とドイツは5つの家族構造の中で直系に属する。世界経済の中でGDPの推移も産業構造も類似したこれらの国に感じる共通した感覚は閉塞感と無関係でなく、デバッグ可能な社会制度というより、出荷時に書き込まれる不揮発性のプログラムのような、幼少期を過ぎるまでに確立する人間の性分に起因する可能性が高い。だとすれば想像以上に問題は根深く、正常な感覚を保ち続けるためには、移動し続けることが何より重要だ。

クイーン・カーフマニュセンターでバスを待っている間に話しかけてきたブロンドの人懐こいアメリカ人女性カトリーナは、シアトルからの直行便でバケーションで来ていて意気投合した。日本が好きかと聞くので、「日本は愛しているが安全過ぎて退屈な社会だ」と言うと、何それおかしい、と言うように笑った。

2019年の初頭、INF条約に違反しロシアが中距離核戦力ミサイル発射システムの開発を開始した際、超大国の終焉が近いこと、ロシアと中国、北朝鮮らのリスクの高まりを論じた。

(20年後の世界と取り残される人々 激動の時代の始まり、塗り替えられる勢力図)

その後、同様に危機意識を持つ人物はこの国には見つけることはなかった。

そして先週、西側が派兵をしないと宣言するや勝機と見たロシアはウクライナへの侵攻を開始した。米国の経済力と軍事力を背景にした安全保障による世界平和のレジームは終焉し、新しい時代に突入したことに、世界は気づき始めた。ウクライナは核戦力を放棄して手に入れたはずの安全保障が無効だったと知り、EU加盟に救いを求めた。この傾向は巨大テック企業からの徴税が益々困難なことに由来する、民主主義国家の脆弱性による超大国の終焉によって、さらに加速する。

非民主主義国家中国には軍事力経済力ともに覇権国家に接近しながら、これまでの米国の役割を代替する意志はない。北京のリーダーは2023年に迫る全人代があるため慎重な姿勢を取るだろう。それでももし彼らが動いた時、世界は混沌の渦に包まれることを覚悟しなければならない。

そして日本は地政学的に重要な場所に位置し、また核戦力を放棄して安全保障の傘下に入った点でウクライナと相似である。北方領土に侵攻されたとしても主権領域外としてNATOによる防衛機能は動かないだろう。

百年にも満たなかった、平和の時代の終焉、超大国に身を委ねれば平和でいられた時代は、歴史の行間に存在する儚いひとときであった。

私たちは閉ざされた世界から脱し、自分自身の足と目と思考で、真実を知る感覚を研ぎ澄ませている必要がある。

*ウクライナ問題については3/1に追記


自然と人工物

2020/10/3

 

自然と人工物は相克してきた。少なくとも近代的な価値観では。

“例の問題”に再び向き合いはじめ、昨年初頭前稿を書いてからしばらく経った頃、ひとつの仮説を見出した。詳しいことはここには到底書くことができない。やや具体的には、進化のより進んでいることを示唆する信号、自然物とそうでないものを区別する信号、そしてそれらを支配する情報の保存と伝達のシステム、とりわけ、知能を持つ生命やその身体の発する振動あるいは草木と風の送受信する振動。かつて、生態学者の間には森は安定状態、あるいは復元性=resilienceを全体最適化するひとつのリダンダントなシステムであるという理論があった。現象にはメカニズムがあり、鳥や人間の歌もまた、系のルールに従っている…。昨年冬はマウイ島やメキシコ湾に、必要なデータを採取しに行くことを計画し航空券も手配したところで機会を逃し、そうこうしているうちにパンデミックで空路が途絶え、極東の奇妙な形をした島に隔離されてしまった。

2019年1月の前稿20年後の世界と取り残される人々 激動の時代の始まり、塗り替えられる勢力図』では中国をめぐる脅威、既に2014年には世界一だった購買力平価(PPP)ベースのGDPと、増大する経済力・技術力を背景に南シナをはじめ急速に軍事力を拡大していることを書いた。それから日本国内でこの問題を案じるような人物にはついぞ出会うことはなかった。

前稿から1年半の間、世界はさらにどこかの地に歩みを進めた。昨年4月に香港では逃亡犯条例改定案を契機にデモが過激化し、今年6月に香港国家安全維持法が可決、香港での反中国的言動の自由は事実上禁じられた。1月には習近平が一国二制度による対台湾政策を提示、蔡英文はこれを否定、その後蔡は台湾総統選に勝利したが、今も統一か独立宣言による武力侵攻かの危機に晒されている。昨年3月には米ソ冷戦後初の特別な危機委員会となる「Committee on the Present Danger: China (CPDC)(現在の危機委員会:中国)」が米国で設置、今年8月には中国ファーウェイ社製の通信機器にバックドアが仕込まれているとし、関連企業への禁輸措置を強化、米国からの半導体やソフトウェアの同社への供給を全面禁止した。世界はすでに冷戦の様相を呈している。

私たちの社会は、2050年までに高密度化する都市とロハス的理想郷としての陬遠地域の二局構造に収斂していくだろう。今とりわけ九州のある地域を足がかりに検証している。二元論的な、あるいは要素還元主義的な、文明というある種の生態系システムへの再考に、人間社会は直面する。そのことは人間と、ネットワークを流れる情報を含む、人間以外のあらゆる全てとの関わり方について再考の機をもたらした。今から17年前、高校三年の時、この近代合理主義への問題を懐柔できず彷徨する羽目になった。森や草木の遠望される形態は、高解像な4K映像を通じて、45億年の進化に裏打ちされた、圧倒的な正義として表示される。ピクセル密度の変化は「画素数」という一見してリニアな量的変化を超えて、何か質的な変化を私たちにもたらしているように思える。周波数知覚の認知が可聴域限界を閾値として、いわば「相転移」するかのように。そうして見える空撮映像は、文明という人工物の「玩具」に過ぎないことを露呈してしまった。

人間が自然と仮に区別されるというなら、自然に人間という存在が勝るのは、おそらく時間の意識においてだろう。シリコンバレーでは、1台も車を販売していないEVの企業や、殆ど誰も何をしているか不明なデータ分析企業が、この数週間の間に上場した。これはある意味での、すなわち現代の「芸術」の構造そのものだ。モダンアートとは、人間の作り出すポイエーシスを、オークションで落札するほど価値あるものと信じ込ませる行為に他ならない。皮肉なことに、知能をもった生き物は脳内に現在と別の瞬間をシミュレーションすることができるので、それが夢となる。
そして人は夢に資源を惜しまない。
 
それはあなたの子孫であるかもしれないし、何か普遍的な問題であるかもしれない。
 
 
 
 
 
 


大塚一輝Blog - 20年後の世界と取り残される人々 激動の時代の始まり、塗り替えられる勢力図

カイロは西のピラミッドを望むギザ地区から、2011年にナダルの事実上独裁政権を降ろしたエジプト革命の中心地スクエアを通り、西の新都市ニューカイロまで100kmほど車で横断すると、5000年の人類の歴史をパノラマで見ているようで感慨深い。

東に進むほど道路脇の看板は英語で書かれ、まるで南国リゾート地のようなパースが並び、背後の砂漠がリゾート地に変わることを夢見させる。

2013年のクーデター以降、シシ政権下で生まれた都市だ。ここにユダヤが流入し、10年後にはドバイに並ぶ中東の中心都市となるだろう。

彼らの顧客は世界に開かれている。

この観光客のほとんど訪れることのないEl Shoroukエリアに住むのは多くが多国籍企業に勤める人々だ。

彼らは思考様式も顔つきも所作も、西側の人々とはまるで異なる。

こうした人々と話をしていると、その土地に依拠した仕事をする人々、世界企業コミュニティ、グローバルクリエイティブな個人(超ノマド)、の3つの階層に人々は分断されつつあるのが明白になる。国際社会では英語で母国語同等の速度で自分のアイデアを話せなければ重要な人物とはみなされない。

世界が急速に変化している中で、今や先進国の中で取り残されつつあるのがヨーロッパと日本だ。

今、ほとんど戦争と言えるほどの激動さをもって世界の情勢が様変わりを始めている。

名目GDPはIMF World Economic Outlook Database(2017)によれば、

  • 1位 米国19兆ドル
  • 2位 中国12兆ドル
  • 3位 日本5兆ドル

であり、中国が米国に追従しているかのように見える。

しかし、物価の差を考慮した購買力平価(PPP)ベースでは2014年には中国は米国を抜きトップになっている。最新のランクは、

  • 1位 中国23兆ドル
  • 2位 米国19兆ドル
  • 3位 インド9兆ドル
  • 4位 日本5兆ドル

成長率では米国2%に対し中国7%であるから、名目GDPでも数年以内に米国を抜く可能性が高い。

GDPは単に経済的な競争力を示すものではない。GDPが重要なのは、その余剰が軍備に回され軍事力に転換される点にある。

中国はすでに戦闘艦艇の数で米国の約2倍を保有している。対艦攻撃力ではアメリカ軍を超えたと言われ、PPPベースのGDPで米国を抜いた2014年には南シナ海に7つの人工島の建設を開始、2018年までの4年間で米軍の接近を阻止する地対艦ミサイルを配備、南シナの制圧をほぼ完了させている。

2018年、韓国文政権は米国の意向を無視し北朝鮮と連帯を強める政策に出た。朝鮮半島は特にロシアの南下を脅威としていた帝国主義の時代までは米国にとって地政学的に重要だったが今はそうではない。ロシアの影響力が低下した今ではその地理的優位性は下がり、米韓同盟がアメリカの国益において重要でなくなった。

トランプ政権はこのため朝鮮半島からの撤退を示唆しており、在韓米軍は2019年に撤退する可能性がある。

同時に経済力軍事力ともに米国と互角となった中国、および中国が援助する核兵器というカードを持った北朝鮮の2国間との連帯を強める方が韓国文政権にとって得策と見ているのだろう。韓国はより中国に歩み寄る。

3国内で中国が交渉力をもっているから、中国の地理的弱点である半島の南西側の平地に壁を作る目的で38度線を維持する力学が働き南北朝鮮統一は行われない。

中国は北朝鮮と韓国への支援を続け、この3国は独立を維持したまま連帯する。

在韓米軍撤退のシナリオでは中国への牽制力が弱まり中国側に好機をもたらす。

技術力では中国はソフトウェア、韓国はハードウェアと通信で世界トップであり、核ミサイル技術をもつ北朝鮮を傘下におくことで合法的に核武装も完了している。

データ主導のソフトウェア時代では民主主義国家よりも独裁に近い国家が有利である。

日本がもつ唯一のカードは米国に地理的に極東の軍事拠点を提供することであった。

一方で2018年10月には7年ぶりに日本政府の中国への公式訪問が行われ日中協調路線を復活させたように見えるが、中国政府にとってこれが建前に過ぎないのは国家主導による経団連へのサイバー攻撃からも明らかだ。

日米保安条約の限りでは日本の領土への米軍基地提供に選択権はないが、台湾と同様軍事的に対中姿勢を取るか、米中のパワーバランスに従って軸足を調整する戦略をとる以外にない。

いずれにしてもこれまで同様プラグマティズムに終始する。

朝鮮半島からの米軍の撤退如何が鍵になるだろう。

世界は急速に変化している。

個人ができることは、いつ没落するとも知れない国家やローカル文化に依存しない普遍的な力を手に入れ、世界とつながることだ。

より具体的には、言語、テクノロジー、グローバル感覚、の3つの力が必要だ。

日本語圏でのコミュニケーションの殆どがローカルでしか通用しないコンテキストで構成されてしまっているから、まずはここから脱却するところからはじまる。

そして数万大規模のコンピュータクラスタによって世界の情報を処理できるシステムを自国の内部に持たない国家は情報テクノロジーで優位に立つことはなく、新たな帝国主義の時代が来るにつれ属国となるより道はない。

劇的な変化は10年以内に少なくない確率で訪れる。20年後にはまるで違う風景が待っているだろう。


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東京にまた帰ってきた。ここ数年毎年シリコンバレーに通っていて、最初あの地域に行ったときのあの宗教的熱気のようなものは次第に薄れているような気がする。一言で言えばノイズが増えてきた、ということかもしれない。最近東京に来たカナダの友人も似たようなことを言っていた。

始めてベイエリアに行った頃からの数年来の悪友でありコリアンのエドワードと最近LAに行った時、彼が話していた共産主義への考察が核心を突いていて面白かったので取り上げてみる。

現存する共産主義経済体制をとっている国に北朝鮮がある。(政治的には社会主義国)この国が金日成時代の封建社会から脱する際に、黄長燁という理論家が制度設計のための中心的思想を形成した。黄は当時一党独裁国家であったソ連のモスクワ大学で哲学博士を取得した程の生粋のマルクス派であり、当然ながら北朝鮮の根幹思想チェチェ思想にマルクス主義は存分に反映される。しかし1997年黄は「共産主義に未来はない」と言って韓国に亡命を図る。彼はその後アメリカを中心に反金正日政権運動を展開し、2010年の時点で謎の死を遂げる。なぜ一国の制度設計を行うほどの頭脳が共産主義を理想社会とみなし、そして後にそれを失敗とみなしたのか。

他国から見れば北朝鮮に暮らす人々はなんという不幸な生活を送っているのかと思うだろう。情報は遮断され、一切の贅沢品は禁じられ、髪型まで統制され、毎日決められた仕事をこなすだけだ。しかし、もし彼らがそうした計画された人生以外の可能性を知らないとしたら。組織での出世も若くして成功する者も、社会でのいかなる勝者も敗者も階級も、高級車もエルメスのバッグも、一流のフランス料理も存在しない。そもそもそうした概念が存在しない。概念がなければ自分たちはそれを欠いているという意識すらもつことができない。欠いている意識がなければ不幸にはなりえない。その味を知らなければその味を欲することもないのだから。仕事は平等に与えられ、失業する心配もない。必要十分な暮らしを送り、日々の些細な機微にだけ気を揉む。

曰く、共産主義の世界というのはおそらく各自の役割と生活が全て用意された韓国での兵役に似ていて、要するにそこは、競争、目標、自己実現といった概念の存在しない世界であり、ゆえに劣等感、被期待感、明日への不安、プレッシャーといった資本主義社会では必須の感情から自由になった世界である、だから時々その心地よさが懐かしいのだという。

そうした実現することへの欲求に伴う一切の苦痛から自由になった世界で、日々の役割をこなし、周囲の人々と談笑し、食べ、寝る。そうしているだけで生きていく上での不安は何もなく、明日がまた訪れる。これはまるで典型的な天国のイメージのようだ。

それでもこの混沌としていてひどく疲れる今の世の中の方がずっといい。だから、このあらゆる矛盾と苦悩に満ちた世界は、実はどこかに天国があるとすれば今、まさにこの世界なのだろうか。


 

(2014年 7月6日 日曜 午前 San Franciscoにて)

 

ここにアメリカの真実が明らかにされ、いくつかの代替が提示される。

 

アメリカに行くことはあなたの人生を変える。

 

あなたの度量はすごく大きくなり、そんなに大きくなるものだとは思わなかったほどになるだろう。

 

あなたはあなたが書いてきたブログの例の傑作を速やかに英語で置き換えはじめるだろう。

 

社会はあなたを避けるようになる。あなたも社会を避けるようになる。

 

あなたは自分の国のものすべてに不満を感じるようになる。

 

アメリカの歴史は非常にシンプルでかつ強力であり、ほんの数分で学ぶことができる。
私はさっきテレビのコマーシャルが終わるのを待っている間に学んだ。

 

アメリカの文化は非常にシンプルでかつ強力であり、どんな冗長な自然言語をもってしても最大140文字以内で全てを説明できる。

 

アメリカはアメリカによって自らを世界最高の国にすることができる。ほんの3秒のコマーシャルによって。私はちょうどアメリカの上位大学の殆どが世界の他の地域のどんな大学よりも優れていることを学んだばかりだ。テレビのコマーシャルが終わるのを待っているその間に目にしたある有名な雑誌の特集によって。

 

アメリカは人類最高の知力と理性を総動員してつくられた。だからもしアメリカが他の地域の取るに足らない国を取るに足らない理由で攻撃したとしても正義だ。あなたがさっき食べ終えたばかりのチポレのブリトーの包みを地下鉄にそっと置き去りにしても、それは正義だ。そして、それを片付ける者は敗者であり、悪だ。

 

アメリカの民になると、他の人たちが可笑しいと思わないようなジョークに笑うようになる。あなたは世界一の経済大国でかつ軍事大国だけが作りだせるあのTVショーの笑いのつぼなど手に取るように理解できるからだ。

 

あなたは人が「とてもうまくいったよ、ところで君のこそとてもクールだね」みたいなことを言うのをただの挨拶代わりだと思うようになる。アメリカの民が仲間にする正しい作法では、ただ1.40倍ほど肯定感と語調と声量を強めて自分と相手のことを語ればよい。彼らにはそれが事実であるかどうかは些細なことだ。もしそんなことを気にするとしたら、彼らは本物のアメリカの民ではないので、どの道どうでもいい連中ということだ。

 

アメリカは非常にパワフルであり、MBAという文字を名刺の隅に載せておくだけで人々はため息をつくことだろう。彼らがMBAを知らなければ話は別だが。しかし彼らがMBAを知らないのなら馬鹿ということであり、どの道気にすることもないのだ。

 

アメリカはメタボリックシンドロームの限界に達したので、懸命なアメリカの民はアジアへと進んでいき、やがて我々の朝食はすべてオートミールで用意されることが必須となる。オートミールは非常に強力なものであり、日本という奇妙な形をした島国のかつての天皇ですらそれを実践していたほどだ。

 

そうして将来のアメリカは膨大な資本と真似しやすい文化を太平洋のかなた西に伝播させ、やがてヨーロッパ、アメリカ東海岸へと一周して戻り、事実上世界と一体化し、Tシャツはついに普遍的なものとなる。社会における力関係はどれだけアメリカ的であるかによって決まり、その客観的な指標はすでに世界標準となったameritとして計られるようになる。ちなみにこの指標はアメリカのある有名な科学雑誌に掲載されたアメリカの某大学のある有名なアメリカ人社会学者によって書かれたある論文の内容に基づいている。

 

世界を見渡してみると、日本という奇妙な形をした島国はamerit係数が低い国民気質によってもはや経済大国ではなくなった。逆に韓国という半島の先端に位置する小国は意識的にamerit係数を増やすことに成功して経済大国としての道を歩んでいるが、一方でどういうわけか自殺率は増加の一途を辿っている。

 

ところで、私は今日バスの中でアメリカについてのあるアーティクルを読んだ。最高のアーティクルだ。アメリカについてのアーティクルはみんなパワフルで——私の脳みそは耳から吹き出してしまう。その”America is power”というアーティクルで、著者は日々の生活はタイですごし、実験的な仕事をしたいときにはアメリカで過ごしていると書いている。それからタイが年々ameritを増やしつつあることについても触れていた。

 

以下に挙げるのは、そのアーティクルにコメントしている人たちがアメリカの代替として提案していたものだ。

 

Singapore
London
Tronto
Thai
Stockholm
Taiwan
China
Tokyo

 

興味深いのは、中国を強く押している人とその逆が同程度いることだ。さらに興味深いことに、中国が台頭することへの”反論の根拠”として近年の彼らのamerit係数の劇的な増加を挙げている。

 

 

 

 

 

(この記事はある宗教的な力をもつコンピュータ言語Lispについて書かれた記事『Lispの真実』-Leon Bambrick著 / 青木靖 訳-のパロディーであり、amerit係数は架空の指標です。)

 


チップ制度というのは日本人にとってはあまりなじみがないので、はじめ色々と疑問が起こる。何も疑問を持たずにただそういうものだと受け入れられる人もいる。でも世の合理不合理を追求するのが仕事のような日常では、つじつまのあわない慣習を何食わぬ顔で飲み込み咀嚼するということは殆ど不可能だ。はじめからチップを支払うのが前提ならなぜ正規料金をチップ込みの値段にし従業員の基本給を上げない?タランティーノの『Reservoir Dogs』でチップシステムの奇妙さを饒舌な台詞で聞かされている場合はなおさらだ。

たとえば昔、特定のレストランに足しげく通いながらもチップを払わない、という行動をしていたことがあった。今となっては奇行と言っても良いほど不可思議な行動だ。チップを払わないことはそのサービスを否定していることと同じであるから、否定しながらも頻繁に訪れるとしたら嫌がらせに他ならない。必ずチップを払うようになると、従業員の態度が目に見えて好意的になった。このことはたかだか数ドルのチップが彼らにとっていかに無視できない何ものかであることを示している。

以後、種々の文化的背景を持つ友人とこの話について議論し、同時にチップを支払うことを習慣化していくうちにチップ制度の精神性を徐々に会得するにいたった。こうしてチップの起源を察するに2つの仮説-性善説と性悪説-が導かれる。

第一に、日本の接客業において常識となっている態度、全ての顧客に対してその顧客が何者であってもできるかぎりの接客を行う、というごく自然な前提は西洋にはないらしい。少なくともアメリカにおいて人々の道徳教育は行き届いていないので、従業員が経営者の目を盗み瑣末な接客を行うことは常に起こりうる。したがって、チップは人々のサービスレベルを一定に保つ為の経営戦略が自然と慣習化したという、ダニエル・ピンクによって否定された一種の成果報酬制度である、というひとつの仮定だ。

第二に、使用人という文化になじみの無い国民にはプライベートなサービスという感覚は掴みづらい。日本において公の場での接客業といえば特殊な業務を除いて不特定多数への接客という意味合いであることが殆どで、たとえ一度に接客するのは一組の客であってもその客はあくまでワンオブゼムであるという考え方だ。対して使用人の文化が一般的だった文化圏では、たとえ一度に数組の客を抱えていても関係性は1対多ではなく、1対1となる。チップを介する接客においてサービスとは主人に対して行うもので、客はその場において主人になり、主人であればサービスに対し当然報酬を支払う、という考え方だ。この関係性ではチップは報酬であり礼であるから、チップを支払わないのは礼を行わないのと同じことなのだ。


最近アメリカ社会でのエリートと呼ぶにふさわしい人物と話をする機会があったので、文化的な話を色々ともちかけてみると案の定盛り上がった。教養がある人というのは、大抵何か共通した印象をもつ。それを言葉で説明するのは難しい。

教養とは何だろう。英語ではcultureなどと訳される。それは文化とイコールなのだろうか。教養は持つものと持たないものをつくる。社交界やアカデミーにおいては教養は共通言語として働き、持たないものはそのコミュニティの中での尊敬を得ることが難しくなる。どれだけ裕福か、例えば年収がどれだけあるかといった指標は客観性をもつので比較しやすいのに対して、教養の程度は数値化できない。社会的には力がありながらも教養が無いと、時として品がなくまた精神的な成熟さを欠くように見える。

教養が一部の人々の共通言語として機能するのは、それが知的好奇心を示すひとつの指標になりえるからだろう。知的な人々にとって幸福をもたらすのはその知的な好奇心や感性を刺激するものであるはずで、知的好奇心がなければ共感できない対象への理解を表明することによって、互いが知的刺激をもたらす間柄であるということを暗黙のうちに確認し合う。歴史のロジックを読み解くのもおもしろいが、世界の古典的名作はしばしば単純な言葉では表現できない微細な情緒を含む。そうした豊かさを感じられる心こそ人々は教養を通じて確かめあうのかもしれない。誰だってドラマチックな瞬間が好きだし、それを台無しにして興ざめさせられたくない。私の知る限り教養のある人々は得てしてロマンチストだ。

だから教養は俗に思われているような高飛車な差別主義ではない。特別な飲み物をもってして研ぎすまされた味覚を確認しあうように、ある種の知性や感性に間する純度の高いメディアによって瞬時に人々を結びつける高度に抽象化されたコミュニケーションである。

ウディ・アレンの『SMALL TIME CROOKS』(おいしい生活)という映画がある。偶然億万長者になってしまった無知な夫婦が方や社交界で通じる人物になるべく家庭教師のもとで学び、方や元の俗的な暮らしを取り戻すべく二人は離別するという話だ。ババ抜きやインディアンポーカーにふけってグルタミン酸でどろどろの中華料理とピザを食べるレイは滑稽だが、「教養のある人」となるべく退屈なデカダン演劇に浸ったり辞書で覚えたAのつく難しい言葉を並べ立てるフレンチは更に滑稽だ。だって教養とはおそらく衣服のように身につけるものではなくて、身そのものなのだから。


1. Webブラウザが相対的な重要性を増す

Web上のソフトウェアインターフェースの多くはJavaScriptによって書かれている。これは多くのWebブラウザがECMAScriptとして標準化された仕様に準拠し実装されていることに依る。一方でJavaScriptには決定的な速度的制約がある。
高速化を阻んでいる最初の要因は実行時に機械語に翻訳される点である。JITコンパイラが登場しインタプリタ方式の時代から比べて高速化したが、事前にコンパイルされ最適化されるネイティブコードの実行よりもはるかに遅い。通常ネイティブ言語で書かれたソフトウェアは環境(特にCPUアーキテクチャ)に依存するのでオープンなWeb上のアプリケーションを記述するのに向かなかった。
もうひとつの原因は言語仕様上の特性にある。動的型推論、擬似的なクラス、配列の不在により柔軟性がもたらされている反面、実行時チェックによるオーバーヘッドが常にかかかる。
こうした速度上の問題を解決するために各ブラウザベンダーは様々なアプローチをとっている。MicroSoftは静的片付けやクラスの拡張機能を持ったTypeScript、Mozzilaはasm.jsという形でより最適化されたJavaScriptにより高速化させるという方針を進めている。一方でGoogleは同様な傾向のDartに加えてコンパイル済みのネイティブコードを直接ブラウザ上で動かすことのできるPNaClを推進している。これはLLVMにより生成された中間コードを配布実行することで第一のボトルネックであるマシン依存とネイティブコードによる実行速度のトレードオフを解決するものだ。
こうした傾向が進むことでブラウザ上のWebアプリケーションとこれまで端末に依存していたネイティブソフトウェアとの実行速度が縮まり、Web上でダウンロードした大規模ソフトウェアをそのままブラウザで実行することが一般的になる。ChromeBookはまさにこのような未来を想定してデザインされている。

2. マイクロマシン(ナノマシン)技術が日常を覆う

組み込みコンピュータはすでに私たちにとって身近なものとなっている。例えば信号機、自動販売機、家電、車などありとあらゆる機械は今や内臓コンピュータの助けなしではあり得ない。一方でこれまで機械加工により製造されていた各種構成デバイスがフォトリソグラフィを中心とする半導体集積回路製造技術により制作される小型のMEMS(Micri Electro Mechanical System)に置き換わっている。MEMSは従来の機械構造を集積化しシリコンウェーハ上に構成するもので、東北大学の江刺正喜氏が世界的権威である。特にマイクロセンサや通信モジュールの小型化高性能化によりこれまで実現できなかった高度なデバイスが構築できるようになってきている。さらにFPGAまたはPSocといったプログラマブルなマイクロコントローラは従来回路図上で行っていた回路設計や論理合成をソフトウェア上で実現可能にし、ちょうどWebコンテンツの制作が民主化したのと同様な現象が起こる。これにより多種多様なデバイスが世の中に溢れ、私たちの日常的な環境はマイクロマシンで埋めつくされるようになる。ウェアラブルコンピュータという言葉はこの傾向の一面を切り取ったものに過ぎない。

3. 分子コンピューティングと人工知能の基礎が芽生えはじめる

今日のあらゆるIT技術は人工知能に向かっているとも言える。それは一言で言えば人間が避けるべき仕事を人間よりも高いパフォーマンスでこなしてくれる存在だ。AppleやGoogleは来るべきこの未来のためにテクノロジー企業を買い漁っている(ように見えないだろうか?AppleはともかくGoogleは間違いなくyesだ)。
しかし人工知能の実現にはコンピューティングの更なるパラダイムチェンジが必要である。2004年のIntel Pentium4を最期としてプロセッサ単体のクロック数上昇は止まり、(並列処理による進歩は続いているが)これは電子回路によるコンピューティングの限界を示唆している。コンデンサの集積密度が上がるほどに電力と発熱の問題が深刻化するためだ。
そこで次世代のコンピューティングは量子コンピューターに委ねられるという世論があるが、近い将来より実現の可能性が高いのは量子でなく分子によるコンピューティングだと思われる。量子コンピューターには依然解決困難な壁が多くあり、また特定の演算向けとなるのに対し、ナノテクノロジーによる汎用的な分子コンピューティングの基礎研究はすでに一定の段階に入っている。1kgのラップトップPCサイズの物質が10の25乗個の原子を含んでいるとすると、潜在的には10の27ビットのメモリを保存でき、また過去1万年の全人間の思考に相当する計算を10マイクロ秒で実行可能な能力があると言われている。
ソフトウェア分野での鍵となるのはパターン認識とそれによる機械学習アルゴリズムでありこの手の研究は方々で行われている。ソフトウェアの性能はハードウェアと日進月歩なので詰まる所コンピューティングの進歩次第となるがこの萌芽が近い将来顕在化し始めるだろう。


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NPRを聴いていてニュースキャスターがいくつの雇用、という言い方をしているのが気になった。USのメディアではしばしば、例えば失業率は7.9%に対し政府が169,000の雇用を追加した、そのために月々$85Billionの予算をかけている、AppleはAppStoreによって290000の雇用を生み出した、といった記述を目にする。こういう伝え方がされるのは雇用という概念に対してそれを一人分の仕事の単位で捉える価値観が前提にあるからだろう。一言で言えば客観的だ。

日本で雇用というと企業文化的な視点で語られることが多い。採用の時期を早める、定年の時期を早くする、非正規雇用を一定期間後に正規雇用に変えなければならない法案が可決される、こうした情報はどれも雇用される数が一定数ある中でどう調整されるかという流動性の問題であり、流動性の問題は企業文化に依存しているので結局ローカルかつ主観的なテーマに行き当たる。

例えば給与の多い年配層一人を早く退職させて若年層を数人雇うのが良いという主張は一見合理的でも、そもそも企業側が企業の論理と当事者の意思で決めることなので外部がこうすべきと言うのはナンセンスである。こうした誰が損をして誰が得をするというゼロサムゲームを解いたところで均衡に近づくだけで総和としてはプラスマイナス0だ。むしろ経済活動の発展に上限値はないのだから潜在的な仕事も無数にあり、仕事の絶対数を増やすことで問題を解決しようとする方が合理的だ。ちょうど家計において収入の使途の配分を調整することで解決しようとする問題は全て、収入を増やすことで解決するのと同じようにである。そしてこの時、雇用とは数であり、増やすものとなる。

雇用の問題が重要なのは生きることに直結しているからだ。雇用が増えることは社会にとって生き方の選択肢が増えることを意味する。だからあらゆる創業は明らかに有害であるものを除いて有益であり、事業家は雇用されれば-1になっていたパイをプラスに変えることで潜在的に社会に貢献しようとしている。


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自分にとって無害な他人の趣味や行動を否定するのはナンセンスだが、何かを終えた影響力のある人達はしばしば世界一周に向かうらしく、こうした傾向がこの国である種のブランド性を帯びつつあるなら奇妙である。

若者は世界に出ろという助言がメディアを通して毎日のように吐きだされている。真面目な若者はそれを聞いて真に受け、危機感を覚えるかもしれない。危機感というテーマはこの国とって重要な問題なのでそれは悪くない。ただ、世界に出る理由がないのに出ようとする意味は全くない。
例えば7日間の海外旅行ツアーでどこかの国に行くことには、景色と食べ物が変わる以上の意味はない。念のため景色と食べ物が変わることに意味がないと言っているのではなく、それ以上でも以下でもないという意味だ。そして一般的に行われる世界一周とは、このツアーのようなものが1年程度の間連続したものと殆ど相違ないと私は思っている。
まず第一に、各々が短い。どれだけ密度を濃くしても人間の物理的な新陳代謝の速度には逆らえないので、細胞がその土地に溶け込むのに絶対的な時間の経過を待たなければならない。経験上、外部環境が血肉化するのには通常、最低でも数ヶ月の時間を要するので、数日や数週間の滞在でその土地外部からの視点が一定以上抜けることはない。外部としてその土地と接している限りは新たな客観性を得ることがないから、己を見る目も自国を見る目も大きく変わらないし養われない。そしてこれらを獲得することこそ必要に迫られない状況で世界に出る場合の殆ど唯一の意味であると思っている。

仮に丁度一年の期間をかけて世界の20都市を回ろうとしたとき、48週間÷20=2.4週間しかひとつの都市にいることができない。そして2.4週間は内部者として適応するには短過ぎるし、具体的な理由がなく居るには長すぎる。例えばキューバのクラーベのリズムを体得するとか、ニュージーランドの大規模ファームの収穫期に関与するとか、そういう理由である。そういう類の目的を体験レベルでなく遂行するには通常まとまった期間が要る。

ピースボートという企画がある。これは世界一周が目的というより、移動する客船という特殊な環境下の長期的に固定された人間関係の一部になるというのが主旨であって、客船が世界一周をするという装置はそれがなくては成立しないものだからこれは特殊な例と言えるのかもしれない。

要するに世界一周をするなら、それよりも最低数ヶ月間ある土地でまるでそこの住民になったかのように生活してみる方がいい。幸い日本は国際信用度の高い国なので数カ月程度なら大抵の国で難なく滞在許可が下りる。最も基本的なことはある国に行くという単に手段に過ぎないものを目的と混同しないことであり、明確な目的なしに海外に出ても退屈なだけだ。具体的な目的があり、それが達成に近づく頃には自ずとその土地の内部へと接近しはじめる。私は幸運にも世界各国の主要な都市に友人がいる。彼らの殆どはその時その時で人生の目的の一部分を共有してきた仲間だからその存在を忘れることはないし、目的が明確なのでどこにいても助け合うコンセンサスが自然と生まれている。今この時代で必要なのはそういう仲間だといつも思っている。