アメリカの真実

 

(2014年 7月6日 日曜 午前 San Franciscoにて)

 

ここにアメリカの真実が明らかにされ、いくつかの代替が提示される。

 

アメリカに行くことはあなたの人生を変える。

 

あなたの度量はすごく大きくなり、そんなに大きくなるものだとは思わなかったほどになるだろう。

 

あなたはあなたが書いてきたブログの例の傑作を速やかに英語で置き換えはじめるだろう。

 

社会はあなたを避けるようになる。あなたも社会を避けるようになる。

 

あなたは自分の国のものすべてに不満を感じるようになる。

 

アメリカの歴史は非常にシンプルでかつ強力であり、ほんの数分で学ぶことができる。
私はさっきテレビのコマーシャルが終わるのを待っている間に学んだ。

 

アメリカの文化は非常にシンプルでかつ強力であり、どんな冗長な自然言語をもってしても最大140文字以内で全てを説明できる。

 

アメリカはアメリカによって自らを世界最高の国にすることができる。ほんの3秒のコマーシャルによって。私はちょうどアメリカの上位大学の殆どが世界の他の地域のどんな大学よりも優れていることを学んだばかりだ。テレビのコマーシャルが終わるのを待っているその間に目にしたある有名な雑誌の特集によって。

 

アメリカは人類最高の知力と理性を総動員してつくられた。だからもしアメリカが他の地域の取るに足らない国を取るに足らない理由で攻撃したとしても正義だ。あなたがさっき食べ終えたばかりのチポレのブリトーの包みを地下鉄にそっと置き去りにしても、それは正義だ。そして、それを片付ける者は敗者であり、悪だ。

 

アメリカの民になると、他の人たちが可笑しいと思わないようなジョークに笑うようになる。あなたは世界一の経済大国でかつ軍事大国だけが作りだせるあのTVショーの笑いのつぼなど手に取るように理解できるからだ。

 

あなたは人が「とてもうまくいったよ、ところで君のこそとてもクールだね」みたいなことを言うのをただの挨拶代わりだと思うようになる。アメリカの民が仲間にする正しい作法では、ただ1.40倍ほど肯定感と語調と声量を強めて自分と相手のことを語ればよい。彼らにはそれが事実であるかどうかは些細なことだ。もしそんなことを気にするとしたら、彼らは本物のアメリカの民ではないので、どの道どうでもいい連中ということだ。

 

アメリカは非常にパワフルであり、MBAという文字を名刺の隅に載せておくだけで人々はため息をつくことだろう。彼らがMBAを知らなければ話は別だが。しかし彼らがMBAを知らないのなら馬鹿ということであり、どの道気にすることもないのだ。

 

アメリカはメタボリックシンドロームの限界に達したので、懸命なアメリカの民はアジアへと進んでいき、やがて我々の朝食はすべてオートミールで用意されることが必須となる。オートミールは非常に強力なものであり、日本という奇妙な形をした島国のかつての天皇ですらそれを実践していたほどだ。

 

そうして将来のアメリカは膨大な資本と真似しやすい文化を太平洋のかなた西に伝播させ、やがてヨーロッパ、アメリカ東海岸へと一周して戻り、事実上世界と一体化し、Tシャツはついに普遍的なものとなる。社会における力関係はどれだけアメリカ的であるかによって決まり、その客観的な指標はすでに世界標準となったameritとして計られるようになる。ちなみにこの指標はアメリカのある有名な科学雑誌に掲載されたアメリカの某大学のある有名なアメリカ人社会学者によって書かれたある論文の内容に基づいている。

 

世界を見渡してみると、日本という奇妙な形をした島国はamerit係数が低い国民気質によってもはや経済大国ではなくなった。逆に韓国という半島の先端に位置する小国は意識的にamerit係数を増やすことに成功して経済大国としての道を歩んでいるが、一方でどういうわけか自殺率は増加の一途を辿っている。

 

ところで、私は今日バスの中でアメリカについてのあるアーティクルを読んだ。最高のアーティクルだ。アメリカについてのアーティクルはみんなパワフルで——私の脳みそは耳から吹き出してしまう。その”America is power”というアーティクルで、著者は日々の生活はタイですごし、実験的な仕事をしたいときにはアメリカで過ごしていると書いている。それからタイが年々ameritを増やしつつあることについても触れていた。

 

以下に挙げるのは、そのアーティクルにコメントしている人たちがアメリカの代替として提案していたものだ。

 

Singapore
London
Tronto
Thai
Stockholm
Taiwan
China
Tokyo

 

興味深いのは、中国を強く押している人とその逆が同程度いることだ。さらに興味深いことに、中国が台頭することへの”反論の根拠”として近年の彼らのamerit係数の劇的な増加を挙げている。

 

 

 

 

 

(この記事はある宗教的な力をもつコンピュータ言語Lispについて書かれた記事『Lispの真実』-Leon Bambrick著 / 青木靖 訳-のパロディーであり、amerit係数は架空の指標です。)

 

信用

世の中は信用で動いている。人が信用を買い、信用を基に関係性を構築するのは未来は予測できない一方で時間は刻一刻と進んでいくからだ。誰もが有限の時間を無駄にはしたくない。信用を選びとることによって、不確実な未来の精度を高めることができる。銀行が貸し出しを行いマネーサプライを増やすことを信用創造(Credit creation/Money creation)というが、本質的に同じことだ。

以前”垂れ流し続けているような感覚”で事業主がもつコスト感覚について書いたが、信用に対する感覚も事業主とそうでない人達では異なる傾向にあるのかもしれない。信用とは作るのは困難で失われるのは容易いとよく言われる。我々は常に、一度信用を失えば最後というつもりで生きている。ビジネスにおいて信用が回復するまで根気よく面倒を見てくれるような相手は存在するはずがないので、失えば即ち関係性の終わりというコンセンサスがある。これは関係性が関係し合う双方の意思によってできているからだ。組織に属する場合の多くは関係性が第三者によって決められるので、二者間で信用が失われても関係性は簡単には崩れることはない。例えば学校の教師と生徒は学校組織によって”偶然”作られた関係なので、生徒が教師を評価していなくても関係は維持される。第三者に委ねられた関係性は崩れにくいので信用を回復する時間が与えられる。だから回復するまでの時間を不快感で満たさないために謝るという行為が意味を持つ。本来謝ることには気持ちを穏やかにさせる以外なんら意味はない。謝っても事実は変わらないので、特にビジネスにおいては無意味だ。

世界一周をしてはいけない

20130907-123753.jpg

自分にとって無害な他人の趣味や行動を否定するのはナンセンスだが、何かを終えた影響力のある人達はしばしば世界一周に向かうらしく、こうした傾向がこの国である種のブランド性を帯びつつあるなら奇妙である。

若者は世界に出ろという助言がメディアを通して毎日のように吐きだされている。真面目な若者はそれを聞いて真に受け、危機感を覚えるかもしれない。危機感というテーマはこの国とって重要な問題なのでそれは悪くない。ただ、世界に出る理由がないのに出ようとする意味は全くない。
例えば7日間の海外旅行ツアーでどこかの国に行くことには、景色と食べ物が変わる以上の意味はない。念のため景色と食べ物が変わることに意味がないと言っているのではなく、それ以上でも以下でもないという意味だ。そして一般的に行われる世界一周とは、このツアーのようなものが1年程度の間連続したものと殆ど相違ないと私は思っている。
まず第一に、各々が短い。どれだけ密度を濃くしても人間の物理的な新陳代謝の速度には逆らえないので、細胞がその土地に溶け込むのに絶対的な時間の経過を待たなければならない。経験上、外部環境が血肉化するのには通常、最低でも数ヶ月の時間を要するので、数日や数週間の滞在でその土地外部からの視点が一定以上抜けることはない。外部としてその土地と接している限りは新たな客観性を得ることがないから、己を見る目も自国を見る目も大きく変わらないし養われない。そしてこれらを獲得することこそ必要に迫られない状況で世界に出る場合の殆ど唯一の意味であると思っている。

仮に丁度一年の期間をかけて世界の20都市を回ろうとしたとき、48週間÷20=2.4週間しかひとつの都市にいることができない。そして2.4週間は内部者として適応するには短過ぎるし、具体的な理由がなく居るには長すぎる。例えばキューバのクラーベのリズムを体得するとか、ニュージーランドの大規模ファームの収穫期に関与するとか、そういう理由である。そういう類の目的を体験レベルでなく遂行するには通常まとまった期間が要る。

ピースボートという企画がある。これは世界一周が目的というより、移動する客船という特殊な環境下の長期的に固定された人間関係の一部になるというのが主旨であって、客船が世界一周をするという装置はそれがなくては成立しないものだからこれは特殊な例と言えるのかもしれない。

要するに世界一周をするなら、それよりも最低数ヶ月間ある土地でまるでそこの住民になったかのように生活してみる方がいい。幸い日本は国際信用度の高い国なので数カ月程度なら大抵の国で難なく滞在許可が下りる。最も基本的なことはある国に行くという単に手段に過ぎないものを目的と混同しないことであり、明確な目的なしに海外に出ても退屈なだけだ。具体的な目的があり、それが達成に近づく頃には自ずとその土地の内部へと接近しはじめる。私は幸運にも世界各国の主要な都市に友人がいる。彼らの殆どはその時その時で人生の目的の一部分を共有してきた仲間だからその存在を忘れることはないし、目的が明確なのでどこにいても助け合うコンセンサスが自然と生まれている。今この時代で必要なのはそういう仲間だといつも思っている。

Be first, Be smarter, Cheat

2012-01-26 16.47.48 HDR

東京に帰ってから二ヶ月が経った。
複数の事情が重なって春になるまでは日本にいなければならない。

私の友人であり同時にアメリカにおけるメンターでもあるチャドはPayPalのファウンダーの一人であるPeter Thielをクライアントに持つ投資会社のアナリストで、前歴はフォトグラファーとしてインターネット業界に関わった後ハーバードの大学院でファイナンスを学びVCやPrivate Equity業界に転職した。

彼がWestfieldのカフェで話してくれた感動的なアドバイスを忘れないように書いておこうと思う。

「ビジネスを成功させるには、次の3つの鉄則がある。
“Be first、Be smarter、Cheat”
カズは最初の2つは大丈夫だから、あとは最後だね。この辺は中国人がとてもうまい。僕も前の会社にいたときは会社には内緒でインターネットビジネスをやっていたんだ。

僕の祖母は一昔前にすごく成功した経営者で、Landonっていうファミリーネームは祖母の家系のものなんだけど、彼女が僕によく言っていた言葉がある。どんなものでも売れるんだって。

これは僕がフォトグラファーをやってたときに関わっていたwebサービスで、観光業者向けにハワイとかリゾート地の写真や動画を販売するサイトなんだけど、このハリネズミの動画ひどいだろ?これ僕が撮ったんだけど、本当にひどいよね。でも売れるんだ。

このサイトは最初の年は購入してくれたユーザーは0で、次の年は10人だった。その次の年は50人くらいだった。

もうやめようってことにもなってたんだけど、徐々に写真や動画の素材も増えてきて、5年目あたりで一気にユーザーが数千人に増えて売り上げもそれなりの規模になって、最近他の会社に売却したんだよ。どんなサービスも売れるまでには5年くらいは必ずかかる。

これ見て、HDの最高画質のだと100ドル以上もして誰が買うのかって思うよね。でもほら、これを見ると12人も買ってる。

こんな動画でも誰かにとっては重要で、買う人がいるんだよ。」

クリエイタークラスと高度成長期以後の組織論

“肥り過ぎて没落した国家”と言われる日が来るのではないかとも言われるアメリカ社会、見渡す限り肥満体ばかりである。

他の地域はましと聞くがSFベイエリアだけがこうなのではないと思う。食文化が粗末なアメリカで何故ここまで肥満が増えるのか、原因は要するに手持ち無沙汰だから、つまりこの国が物質的には豊かでありながら文化的には貧しいという本質的に悲しい性質を抱えていることに依るのではないだろうか。

 
話は変わって高度成長期と現代社会を比較してみると、クリエイタークラスが現代社会に特に適応性が高いことの合理的な説明ができる。まず高度成長期は大規模開発が産業を牽引するので、必然的に大規模な組織が活躍する。大規模な組織というのはマクドナルドの店員を束ねる店長を束ねるマネージャーを束ねるゼネラルマネージャーを…といったピラミッド構造をとるのが効率的だったので、店長からゼネラルマネージャーまでの階層、つまり実際にハンバーガーを作る専門的知識がほとんど必要ない人達の需要が社会全体で見ると増えるということになる。いわゆる中間管理職である。

(現実に現場の店員もハンバーガー製造マニュアルに従って作っているだけなので専門的な知識はほとんど必要ないが、イメージしやすいモデルとして)

 

そしてやがて高度成長期は終わる。このとき残された資産として特に重要なのはインフラよりもむしろ生産のための生産財である。つまり飛行機そのものよりも飛行機を作る技術とインフラである。なぜなら大規模開発が一通り進むと、より細分化された需要を満たすための産業が発達するので、こうした生産のための生産財を使って新しい価値を生み出す小回りの効くスモールプレイヤーが活躍するための土壌がここで整備されたことになるからである。そうしてLLCや数あるインターネットショップのような産業が発達する。

これまで最大公約数的に人々の需要を見たしてきた大規模な組織は、こうした細かな需要を的確に捉えていくサービスに勝つことができない。かくして社会はスモールプレイヤーの時代となった。そしてスモールプレイヤーにとって中間管理職はあまり必要ではない。今大企業で大規模なリストラや経営悪化が起こっているのはこうした時代の必然である。そして相対的に必要とされる人材の多くを占めるようになるのがコンピュータ、会計、物質化学、バイオテクノロジー、グラフィックデザイン、メカトロニクス、ジャーナリズム、自然エネルギー..のような専門分野に精通し、直接的に価値を生み出すことのできるクリエイタークラスである。彼らは組織ではなくプロジェクトを中心にして活動する。このとき組織の形態としてより理に適うのは従来のピラミッド型ではなくクラウド(雲)型である。

 

ノマド論にみられる最大の誤解

最近ではノマドやノマドワークという言葉が一人歩きしながらテレビなどでも話題にされるらしいが、多くの人が誤解しているのは、この言葉が「遊牧民」という言葉から派生しているというものである。
;
そもそもの問題点として日本人はたとえ高学歴層であっても、米国の上位大学で義務的に課される習慣つまり古典的なテキストをあたる習慣がある人種はかなり希少なので、文脈から切り離された言葉の印象を基点とした議論に陥りやすい傾向があると思われる。
経済学者の池田信夫氏も度々ツイッター等で経済学用語の誤用に怒りを示しているが、抽象概念は歴史を背負って存在する、言葉が文字通り進化したものである以上、その言葉を定義づけるテキストを読まなければ本当の意味で正確に理解することは難しい。
そして議論は言葉を通じてなされるのであるから、特に抽象度の高い概念を用いる程、そもそもの言葉の定義がずれていてはまともな議論になり得ない。
;
まずノマドという言葉を議論の俎上に乗せる前に、これが「超ノマド」という概念に由来していることを理解している人がどれだけいるのだろうか。
超ノマドとはフランスの経済学者、思想家でありまた初代欧州復興開発銀行総裁を努めたジャック・アタリの著作『21世紀の歴史』で記述される、情報化社会以降の現代において携帯可能なデバイス(ノマドオブジェ)と専門的な技能を駆使して土地に依存しないフロー型の生活を行う者のことである。
超と言うからには超でない普通のノマドという概念からの派生であるが、この場合のノマドも遊牧民を指しているのではなく、情報化社会以前の社会で移動を伴う生活を行っていた人種のことを指し、これは12世紀に会計技術の発明によって金融業が栄えたジェノバをはじめとする「中心都市」とその中心都市を巡っての大局的な人の移動という文脈とともに説明される概念であり、当たり前だが広辞苑で引いても同じものは出てこない。
;
重要なことはデジタル技術の発達により、我々が社会の中で生み出すもののうち情報化できるものの範囲が広がったので、情報を効率よく伝達できる移動性のツールを伴って「土地という制約からより自由になる人種」が増えるということである。
;
従って、ノマドという言葉を単純に遊牧民的なイメージとして語るのは、言ってみれば「オタク」を〜オタクのオタクと同一概念で語ることと同様、言葉の進化のコンテクストを無視した行為であると言えるだろう。

楽観的であるのと戦略が無いというのは別である

北朝鮮がミサイル発射実験を行った4月13日は羽田に向かう日の前日で、クアラルンプールからバスでシンガポールに向かっているときだった。

ミサイル発射の計画自体を知ったのはセブの友人が4月4日付けのManila Bulitenを見せてくれたときで、そこには成田を含むアジアの主要な空港が便を止めると書かれていたのでそういう事態も想定に入れていたのだが結局実験は失敗に終わっただけとなった。目標ポイントはフィリピンの東の海であり、そこに落ちれば地震のような揺れが起こるだろうと書かれていた。
そんな経緯もあり日本の知人から少し心配されもしたのだが、むしろ日本にいる方が危険だと思っていた。
確かに韓国、那覇、その南の米軍から成る3ゲートでの追撃体制は所定の弾道プラスαで想定すれば堅いディフェンスと言えるのかもしれないものの、1000機保有していると言われる中距離ミサイルを任意に放たれた場合、防ぎきれない可能性がゼロに近いとは言い切れないのではないかと思ったからだ。そして何より狙うとすれば実は日本は格好のターゲットである。

少なくとも先日のように予告されている場合でなければ、迎撃に国会の審議を必要とする今の日本のシステムではどう考えても間に合わない。北朝鮮は国際経済に順応する力がなく、また自活する力もなく、もはや恐喝することでしか生き延びれない国である。総書記が変わり、その影響力が下がれば軍部の論理の抑制が解かれることも想定されるので、諸々の状況をシミュレーションし戦略を用意する事は喫緊の課題だと思われるがそうしたことが行われているようには見えない。
北朝鮮に武器を調達していると言われる中国と、即座に報復可能な準備が出来ている韓国、丸腰の日本。この中で狙われる国を考えるのに家電向けのICチップすら要らないだろう。

セブでルームメイトだった韓国人の友人はミサイル発射のアナウンスなどよくあることで、技術力も低くあの国は脅すことくらいしかできないから全く問題ないと言っていた。
実際には私も楽観視している方で、かといって国が物理的に破壊されるリスクに対して何の戦略もないという状況は少なくとも褒められた事ではない。

個の時代は人類にとっての摂理

摂理とは元々キリスト教の概念である。Providence(神意)に相当し、自然発生的に生まれ均衡の保たれたシステムを神の御業に例えて使われる。
アタリも指摘するように、人類が個人の自由の獲得へと奔走してきたことは歴史が示している。まるで個の自由がより尊重されたシステムこそエントロピーが増大した自然状態に近づくかのようにである。
このことから人間というものは生来自由を求める生き物であると仮定するならば、より個として自由に生きることが可能な時代になるにつれ、それを実践する人々の割合が増えるのは必然である。産業が複雑化すると同時に、情報で切り分けられた仕事はデジタルネットワーク上で転送可能になり、つまりこの高度情報化時代において土地への依存から土地に依存しないネットワークへの依存に変容したことが空間という一つの制約を我々から取り除きつつあるので、我々は必然的に制約の少ない方向へと歩んでいく。
個の自由とは何か。それは行動の選択肢がより幅広く、依存の少ない状態と言える。空間的な制約がなければどこにいるかを選択することができるし、時間的な制約がなければいつ何をするのかを選択できる。組織のコンプライアンスを背負わなければ、言論の制約を受けない。また給与所得による金銭獲得は給与の払い手、つまり多くの場合所属する企業からのみ生きるための資金を委ねている状態となり、ライフラインを一つの存在に握られている高リスクな依存状態と言える。子供であれば親が同等の存在である。農耕時代は文字通り土地に依存し、工業化時代は主に固定された設備に依存した。土地に依存せず携帯可能な情報デバイスを必須のツールとする現代は狩猟時代に近い。必須であるが依存しないのは道具は現地でも調達できるためだ。ソフトウェアやデータはクラウド上から引き出せる。

なぜ人々は制約の少ない低依存状態を指向するのだろうか。
多くの地上の動物は卵や胎内で生まれ、巣や親の近くで餌を与えらながら育つ。やがて自分の手足で移動できる身体能力を獲得し、自ら獲物を獲る方法を身につける。そして個として、時として他者と協力したり争いながら生きていく。こうした性質は我々が本能的に備えていることなのかもしれない。

書評 『モチベーション3.0』ダニエル・ピンク

内発的動機づけは外発的動機づけに勝る。この本のテーマであるが、これだけ聞くと当たり前のように思える。しかし、一言で伝わる主張のためにわざわざ一冊の本は書かれない。

以前のエントリーで我々事業主がもつコスト感覚について書いた。
自らの行動コストと利益を逐一天秤にかけ、合理的で最善の行動をとろうとする習慣的感覚である。こうした行動の枠組みは従来の経済学では前提条件として与えられるものであった。つまり、人々は常に経済的利益を最大化する行動を選択するという前提に基づいて理論が組み立てられてきた。ブルーノ・フライが言うところのホモ・エコノミクスー経済人種ーである。

本書が引き合いに出す、報酬と処罰といった外発的動機によってモチベーションを維持する旧来のオペレーションシステム、モチベーション2.0はこうした発想に基づいている。

わたしはお守りのようなフレーズを見つけて試験に適用したおかげで、ロースクールを何とか乗り切れた。「完全に情報が公開され、処理コストが低価格の場合、当事者は、富を最大化する結果を目指して取り引きする」
それからおよそ10年後、わたしが多額の授業料を払い、懸命に学んだ内容の大半に疑問を投げかけざるをえないような、奇妙な出来事が起こった。2002年、ノーベル財団は、ノーベル経済学賞を経済学者でない人物に授けた。主な受賞理由は、人は必ずしも自己の利益を最大化することを目的に取り引きしない場合も多い、という事実を明らかにした功績だった。

その人物とはアメリカの心理学者、ダニエル・カーネマンである。カーネマンは『Thinking, Fast and slow』の著者で人間の行動の多くは無意識的判断(システム1)に寄り、意識的判断(システム2)は人間の行動を決める要因の一面に過ぎないとした。
この主張はシステム2、即ち合理的な思考によって行動することを前提とした従来の経済学に対しパラダイムシフトの可能性を示唆する程のインパクトをもっていた。経済学の常識が畑違いの人物によって覆されるのは痛快であり皮肉だが、同様なことはソロスからも以前より指摘されており、価格の均衡が合理的に決定されるという逸話に対しては現実に大きな資金を動かす金融の実践者程疑問を持っていたのではないだろうか。従来の経済学の理論が理想的な条件を基に考察されてきたのは多くの人が指摘する通りである。

さて、本書が主張する内発的動機付けのもつ優位性にまつわるフレームワークは他者をマネジメントする際に特に直接的に作用し得るし、実際に多くがそういった視点で書かれている。

21世紀は、「優れたマネジメント」など求めていない。マネジメントするのではなく、子供の頃にはあった人間の先天的な能力、すなわち「自己決定」の復活が必要なのである。

同時に、人は誰でも自らをマネジメントしているから置かれた環境によって野心の火種を絶やさないために回避すべき、または改善すべきチェック項目を持っていたい。本書はその助けとなる。