チップ制度というのは日本人にとってはあまりなじみがないので、はじめ色々と疑問が起こる。何も疑問を持たずにただそういうものだと受け入れられる人もいる。でも世の合理不合理を追求するのが仕事のような日常では、つじつまのあわない慣習を何食わぬ顔で飲み込み咀嚼するということは殆ど不可能だ。はじめからチップを支払うのが前提ならなぜ正規料金をチップ込みの値段にし従業員の基本給を上げない?タランティーノの『Reservoir Dogs』でチップシステムの奇妙さを饒舌な台詞で聞かされている場合はなおさらだ。

たとえば昔、特定のレストランに足しげく通いながらもチップを払わない、という行動をしていたことがあった。今となっては奇行と言っても良いほど不可思議な行動だ。チップを払わないことはそのサービスを否定していることと同じであるから、否定しながらも頻繁に訪れるとしたら嫌がらせに他ならない。必ずチップを払うようになると、従業員の態度が目に見えて好意的になった。このことはたかだか数ドルのチップが彼らにとっていかに無視できない何ものかであることを示している。

以後、種々の文化的背景を持つ友人とこの話について議論し、同時にチップを支払うことを習慣化していくうちにチップ制度の精神性を徐々に会得するにいたった。こうしてチップの起源を察するに2つの仮説-性善説と性悪説-が導かれる。

第一に、日本の接客業において常識となっている態度、全ての顧客に対してその顧客が何者であってもできるかぎりの接客を行う、というごく自然な前提は西洋にはないらしい。少なくともアメリカにおいて人々の道徳教育は行き届いていないので、従業員が経営者の目を盗み瑣末な接客を行うことは常に起こりうる。したがって、チップは人々のサービスレベルを一定に保つ為の経営戦略が自然と慣習化したという、ダニエル・ピンクによって否定された一種の成果報酬制度である、というひとつの仮定だ。

第二に、使用人という文化になじみの無い国民にはプライベートなサービスという感覚は掴みづらい。日本において公の場での接客業といえば特殊な業務を除いて不特定多数への接客という意味合いであることが殆どで、たとえ一度に接客するのは一組の客であってもその客はあくまでワンオブゼムであるという考え方だ。対して使用人の文化が一般的だった文化圏では、たとえ一度に数組の客を抱えていても関係性は1対多ではなく、1対1となる。チップを介する接客においてサービスとは主人に対して行うもので、客はその場において主人になり、主人であればサービスに対し当然報酬を支払う、という考え方だ。この関係性ではチップは報酬であり礼であるから、チップを支払わないのは礼を行わないのと同じことなのだ。