【Note】シリコンバレーで会社を設立するための基礎知識

「会社設立の基礎知識」

・取締役は株式保有者の人数に応じる。
3名以上保有の場合最低3名必要。
2名なら2名必要。
1名なら1名で可能。

・雇用者番号申請
個人でいうSocial Security Numberのような一社ごとに固有のナンバー
州に登録後、政府に登録
・法人登記簿コーポレートキットの作成
基本定款、株券発行、会社印など

・法人口座の開設
これには連邦番号FEINが必要
個人口座とは分ける

・ビジネスライセンスの取得
雇用者番号とは別。オフィスのある市で取得。費用は市により異なる

・ まず会社を設立してからVisa取得という手順になるのが通常の段取り。

 

「投資ビザ E2」

・十分な初期投資金
$100,000くらいあると良い
・オフィスを構えていること
・質の高い現実的なビジネスプラン

・申請方法
USCISにてステータス変更として申請

 

「H1-Bビザ」

特殊技能保持者。
在米企業での就業が決まっていることが条件。それ以外は大したことない。

申請時期は春、65000人まで。働けるのは取得後10月から。

 

「デラウェア州での設立」
・ネバダ州とよく比較される。
ネバダ州は取締役や役員のプロテクションが厚く、デラウェアは株主の権利保護に厚い。資金集めにはデラウェアが有利だと思われる。

・デラウェア州以外での利益以外には課税されない。

・毎年度特許経営税のみ課される

・設立まで最低1ヶ月はかかる

・アメリカに住む代理人が必要(設立エージェントに委託する場合サービスにインクルードされているのが普通)

・日本で法人として活動するには日本でも営業所登録をしなくてはならない。

・デラウェアで本社を登記した後で、日本に作るのは支社ではなく子会社の方がいいのは、決算処理の時に本社と支社を合わせて計算してから支社分を分けるという手間と費用がかかるから。

・日米租税条約により税金の二重取りはない

 

「デラウェア州で設立した会社の維持」
・年次報告
毎年3/1まで。$50支払い。遅延ペナルティあり

・州税(フランチャイズ税)
(1)授権資本株式数3000株以下なら$35。5000株以下なら$75。10000株以下なら$150。それ以上なら10000株増えるごとに$150追加。
または(2)株価×$350。
(1)(2)で安い方。

・州税(所得税)
デラウェア州内での事業活動に対し8.7%

野生の思考

サンフランシスコ電子音楽祭り

先月台北にいたときには約1年ぶりにゴルフをして、改めて奇異なスポーツだなと思ったのと同時に、アングロサクソン的だとも感じた。クラブに球を当てるときの初動が全てで、後は飛んでいく球に委ねられる。米の栽培や茶のようにプロセスに手を尽くす文化をもった日本人にはこういうスポーツはスポーツとして成立させられなかったはずである。

 

日本には本当に何でもある。何でもあるというのは、必要なものが全て揃っているというよりもごく稀にしか必要とされないものですら流通していて、割と簡単に手に入るというニュアンスに近い。ここアメリカではあれば便利だがなくてもどうにかなるものは多くないし、誰が買うのか全く想像がつかないようなものはあまり売っていない。

何でもあるということは本来ポジティブな面であるはずなのだが、しかしそれらを生産するのに使われる膨大な人的資源を考えれば実際にはデメリットとなっている。明らかに非効率だからである。日本人の勤勉さはかなりの部分が余剰的な価値単価の低いものに使われ、それはゴルフで言うところの初動がいたるところで誤っているからに他ならない。

これを正す最善の手段は学術的な水準を上げる以外にはないだろう。

 

 

9月の第二週にサンフランシスコ市内で行われた電子音楽祭では、いい意味でなく現代芸術化するシーンの一端を見たような感慨を受けた。

少なくとも以前はcomposeとはパズルのピースを一片の狂いもなく埋めるパーフェクトデザインを指していた。今はcomposeとdesign(DJ)の境界が曖昧である。複雑さと微細さが人間の考案する組織-システム-に追いつかなくなったために、そして記録と再生が遥かに容易になったために、かつて主流であった”完成”という態度を暫定的にでも諦めてやり過ごしている。抽象絵画の黎明期にはサロンでは常識的な態度であるFiniに対立した作家が新しい時代の勃興を勝ち取っているが、根本的に視覚芸術と原理が異なる音響芸術との比較はできない。レヴィ=ストロースの言葉を借りれば「栽培された思考」であるところのcomposeと「野生の思考」であるdesign、要はブリコラージュのような方法こそが主流になっていくのであろうか。

 

そういうわけで、こうした時代にあっては、構造のための理論的な支柱がないがゆえに必然的に見堪えのあるところは音の生成の過程となる。その意味で際立っていたのはJemes Feiだった。彼は台湾出身である。 現代的な楽器のインターフェイスはしばしば、アウトプットと身体性との距離が大きいのでコントロールがより難しい。そしてコントロールを諦めたことが露呈したその瞬間、興が冷めるわけである。身体性から切り離されるほどに、そして情報エレクトロニクスの技術が進んだ結果考慮すべき要素が次第に複雑かつ微細になるほどに、音は人間のコントロール下から当然離れていく。Jhon CageのChance Operationという概念はまさにこのコントロール不能となりゆく傾向に対し、それでも人間はコントロールしているのだと言い張るアカデミックな権威の皮を借りた正当化を許されようとする諦めに他ならない。 こうした一時しのぎを通過しながら、歴史は次なる概念を導入する必要に迫られる。

 

近年の傾向を集約して延長すれば和声と旋律が融解し音程感から自由になった「ビート」のようなものに集約されていくのだろうか。だとしたら、あまりに退屈である。

最近またノマドという言葉を巡って白熱してきたようなので一言

May_Roma ‏@May_Roma

私がなぜ「若者は海外に出ろ」「若者はノマドになれ」と煽っている識者やジャーナリストに怒っているか?それは「夢を売る詐欺」だからです。人生を狂わせる人が大勢いるかもしれないからです。嘘をつかないこと、人を不幸にしないこと、は、最低限守らなければいけないことで、当たり前のことです。

ノマドという言葉は映画史におけるヌーヴェルヴァーグのようなもので、ワークスタイルのある種の傾向を分析しラベリングするためにとってつけた言葉であると同時に、批評の力学をゴダールやトリュフォーやリヴェットのような若い作家に享受するためのひとつのスターシステムのようなものだと思っている。May_Roma女史が「煽っている」という識者やジャーナリストはそのシステムにおける批評家としての役割を演じており、事実彼ら批評家が発信したそのコンテクストの中で安藤美冬やphaといったスタープレイヤーが輩出された。

キャビンアテンダントのドラマが流行った時代はその志望者が増えたというデータがあるが、当然キャビンアテンダントには誰もがなれる訳ではないので、何年もかけて目指した挙げ句素質がなかったために諦めて他の職業に就き、端から見て人生を狂わされたという人もいるかもしれない。そのドラマに対し、キャビンアテンダントという職業を世の中により魅力的に広く伝えた仕事、とするか、「夢を売る詐欺」とするかは個人の主観に依るところなのでどちらが正しいとも言えない。

May_Roma ‏@May_Roma

@hayamayuuそうです。大成功するのはごく少数で、凡人が大成功した人の真似をしても無理なんです。自分の身の丈や能力にあったことを、無理しない程度にやらないと、絶対に失敗します。

ただ、彼女の言う「失敗」と「大成功」が具体的に何を指しているのか分からないが、客観的にみて「失敗」したように見える当人の多くはそれを失敗だとは思っていないのではないだろうか。たしかに破産したり生きていく術を失ってしまった場合は失敗ということになるのかもしれないが、重要なのは失敗しないことではなくて、失敗するリスクを勘案してそうしているか、である。

社会に必要なもののうち情報化できるものの割合が多くなったので、仕事が個人に切り分けられていく傾向は不可避である。議論すべきなのはこの傾向を止めるか促すかではなく、それが自然な歴史の流れであるという前提の基、どのようにリトライ可能な社会を実現または維持していくか、ということだ。大局的な「成功」の定義はこの世代の人たちのそれから変わりつつあるので、たとえ識者やジャーナリストが勝手な成功イメージを添えて紹介していても新しい世代には知ったことではない。彼らは彼らのイメージを勝手に具体化しようとするだろう。

 

ノマド的な働き方に必要なのは、才能ではなく技能である。だから凡人であろうと天才であろうと問題ではない。むしろ、”誰でも生身の状態では凡人である”という事実を認識した上で、訓練を積み重ねていく以外にはない。

松井博/Hiroshi Matsui ‏@Matsuhiro

ノマドというと「セルフランディング」っていうけど、何より大事なのは高いスキル。それがないとセルフブランディングなんていくらしても無駄。

台北再見、南國

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今日9月3日、8:45の便で台北を発つ。今から5時間後には飛行機の中で、さらに3時間後には成田、その14時間後にシアトル、それからサンフランシスコということになる。
日本でハウスの人達にシャンパンとワイン(これは数年前のフランス時代に愛飲していたものを何年も開けずに保持していた文字通りとっておきの一品である)で送ってもらったのがつい先日のように、ここ数週間はあっと言う間に過ぎた。

台湾に最初に注目したのは数年前、私が今の仕事を始める頃、優れたWebデザインのサイトを漁っていた時である。それはひとつの歯科医院のサイトであったが、日本でなら病院のWebなどひとつ残らず版を押したような形式的で没個性的なデザインであろうところが、まるでフォトアルバムのように美しく動くそのサイトを見て、その国の創造性を感じとったわけである。

確かに首都台北といえど、一部の先端エリアを除いてはまだまだ発達の度合いは後進国の様相であるし、事実平均賃金も3万NTD、日本円にして10万円弱であるからあくまでポテンシャルであるものの、その芽はあちらこちらで散見される。
HTCは苦戦しているようだが、Marcos Zotesの3D投影や新都市Gardens By The Bay、または電通のiButterflyの情報すらコンビニでどこでも売っているメディアから気軽にアクセスできるほど世界情勢への感度が高いし、誰でもテレビをつければハリウッドや韓国や日本の文化を各国のチャンネルから吸収できる。通常自国チャンネルだけ流れてくる我が国とはこの辺りが決定的に異なる。

ちなみに台湾は日本のカルチャーをリスペクトしていると言うのがネット含む日本語メディアの通説だが、これはすでに一昔前の話で、今は韓国の方がクールだと言う人はざらにいるし、圧倒的に英語圏への憧れの方が高い。教育上、両親は台湾人であっても子供と英語でしか話さないなんて家庭は珍しくない。

なんでも柔軟に吸収し、尖ったものへの抑制が少ない寛容な国。日本も昔はこうだったのだろうか。横並びなムードをそろそろ脱しないと、置いて行かれてしまうよ。

書評『超マクロ展望 世界経済の真実』

国際経済に関する弁明の中で通常あたりまえのようにそこにすでにあるものとして語られる現象 -資本主義、先進国の金融経済化、資源価格の高騰…- これらのものは当然ながらそれが生じるための力学をもっている。

その見過ごされがちなメカニズムについて、本書では対談という形式をとりながらも体系立てられた入門書として機能し得るほど精緻な歴史的洞察に基づいた議論が展開される。

そもそも資本主義とは何か。金融経済とは何か。バブルとは…

こうした問いに過不足ない論理による解説を試みるとともに、14年という資本主義の歴史上最長の低金利時代を経験した日本の先行性を好機と捉え、来るべき中国元自由化により国債発行での国費調達が限界となる前に低成長を前提とした新しい社会システムを構築せよと説く。

現実世界と離反し機能不全となった過去のモデルベースのマクロ経済学を脱する、現象を現象のままに留められない人へのこれからのマクロ経済学入門書である。

ノマド論にみられる最大の誤解

最近ではノマドやノマドワークという言葉が一人歩きしながらテレビなどでも話題にされるらしいが、多くの人が誤解しているのは、この言葉が「遊牧民」という言葉から派生しているというものである。
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そもそもの問題点として日本人はたとえ高学歴層であっても、米国の上位大学で義務的に課される習慣つまり古典的なテキストをあたる習慣がある人種はかなり希少なので、文脈から切り離された言葉の印象を基点とした議論に陥りやすい傾向があると思われる。
経済学者の池田信夫氏も度々ツイッター等で経済学用語の誤用に怒りを示しているが、抽象概念は歴史を背負って存在する、言葉が文字通り進化したものである以上、その言葉を定義づけるテキストを読まなければ本当の意味で正確に理解することは難しい。
そして議論は言葉を通じてなされるのであるから、特に抽象度の高い概念を用いる程、そもそもの言葉の定義がずれていてはまともな議論になり得ない。
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まずノマドという言葉を議論の俎上に乗せる前に、これが「超ノマド」という概念に由来していることを理解している人がどれだけいるのだろうか。
超ノマドとはフランスの経済学者、思想家でありまた初代欧州復興開発銀行総裁を努めたジャック・アタリの著作『21世紀の歴史』で記述される、情報化社会以降の現代において携帯可能なデバイス(ノマドオブジェ)と専門的な技能を駆使して土地に依存しないフロー型の生活を行う者のことである。
超と言うからには超でない普通のノマドという概念からの派生であるが、この場合のノマドも遊牧民を指しているのではなく、情報化社会以前の社会で移動を伴う生活を行っていた人種のことを指し、これは12世紀に会計技術の発明によって金融業が栄えたジェノバをはじめとする「中心都市」とその中心都市を巡っての大局的な人の移動という文脈とともに説明される概念であり、当たり前だが広辞苑で引いても同じものは出てこない。
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重要なことはデジタル技術の発達により、我々が社会の中で生み出すもののうち情報化できるものの範囲が広がったので、情報を効率よく伝達できる移動性のツールを伴って「土地という制約からより自由になる人種」が増えるということである。
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従って、ノマドという言葉を単純に遊牧民的なイメージとして語るのは、言ってみれば「オタク」を〜オタクのオタクと同一概念で語ることと同様、言葉の進化のコンテクストを無視した行為であると言えるだろう。

情報と感覚が結びつくとき文化が生まれる 1

条件反射を喚起する-パブロフの犬で紹介した通り、特定の刺激(情報)と感覚を同時に与えることでそれらが脳の回路の中で結びつき、その刺激(情報)を受けたときにその感覚も自動的に生じるという機能が人間には備わっており、これを条件反射といった。 kaikaikikiの村上隆氏は、現代芸術は幾層にも重ねられたコンテクストのレイヤーの多層性がその作品の計算された奥の深さを織り成し、従って鑑賞者には歴史のアーカイブをすでに持っていることが求められ、そうした基礎的な素養、つまり世界的には常識となっている芸術の見方を知らない日本人は現代芸術が解らないと主張した。 歴史を紐解けばいわゆる現代芸術に限らず、先端的な芸術を鑑賞または評価するのにいつの時代もこうした態度、即ち歴史のアーカイブというレンズを通して観るという態度が必要だったことは言わずもがなである。新しい芸術は誰もまだ「知らない」のだから。 実際に氏の作品には日本のオタクカルチャーという文脈だけでなく、伊藤若冲のような日本の伝統芸術のレイヤーや他の現代アートからのコンテクストの引用が多分に含まれている。 芸術とは生まれ持っての感性で観るものだとする横尾忠則氏のようなアーティストとは相反する態度である。 では現代芸術のようなローコンテクストな芸術作品はアーカイブというレンズを通して単に理性的に鑑賞する対象でしかないのだろうか。つまり我々はそうした作品に対して感覚的にでなく分析的に良し悪しを「感じる」だけなのだろうか。 (2に続く)

楽観的であるのと戦略が無いというのは別である

北朝鮮がミサイル発射実験を行った4月13日は羽田に向かう日の前日で、クアラルンプールからバスでシンガポールに向かっているときだった。

ミサイル発射の計画自体を知ったのはセブの友人が4月4日付けのManila Bulitenを見せてくれたときで、そこには成田を含むアジアの主要な空港が便を止めると書かれていたのでそういう事態も想定に入れていたのだが結局実験は失敗に終わっただけとなった。目標ポイントはフィリピンの東の海であり、そこに落ちれば地震のような揺れが起こるだろうと書かれていた。
そんな経緯もあり日本の知人から少し心配されもしたのだが、むしろ日本にいる方が危険だと思っていた。
確かに韓国、那覇、その南の米軍から成る3ゲートでの追撃体制は所定の弾道プラスαで想定すれば堅いディフェンスと言えるのかもしれないものの、1000機保有していると言われる中距離ミサイルを任意に放たれた場合、防ぎきれない可能性がゼロに近いとは言い切れないのではないかと思ったからだ。そして何より狙うとすれば実は日本は格好のターゲットである。

少なくとも先日のように予告されている場合でなければ、迎撃に国会の審議を必要とする今の日本のシステムではどう考えても間に合わない。北朝鮮は国際経済に順応する力がなく、また自活する力もなく、もはや恐喝することでしか生き延びれない国である。総書記が変わり、その影響力が下がれば軍部の論理の抑制が解かれることも想定されるので、諸々の状況をシミュレーションし戦略を用意する事は喫緊の課題だと思われるがそうしたことが行われているようには見えない。
北朝鮮に武器を調達していると言われる中国と、即座に報復可能な準備が出来ている韓国、丸腰の日本。この中で狙われる国を考えるのに家電向けのICチップすら要らないだろう。

セブでルームメイトだった韓国人の友人はミサイル発射のアナウンスなどよくあることで、技術力も低くあの国は脅すことくらいしかできないから全く問題ないと言っていた。
実際には私も楽観視している方で、かといって国が物理的に破壊されるリスクに対して何の戦略もないという状況は少なくとも褒められた事ではない。

条件反射を喚起する -パブロフの犬

パブロフの犬という実験をご存知だろうか。パブロフは1904年に最初のノーベル医学生理学賞を受賞したロシアの生理学者だが、犬を対象に餌と唾液分泌の関係を調べているうちに餌を与える係の学生を見るだけで犬が唾液を分泌すようになることを偶然発見し、この生理現象を先天的な「無条件反射」に対して「条件反射」と名付けた。

つまり一定の条件が与えられるとその条件に結び付けられた回路をパルスが走り、特定の行動や感覚を引き起こすというものである。
これは人間にも起こることはしばしばレモンのイメージを与えて唾液線を刺激するような実験で説明される。

さて、条件反射を喚起するというテーマであるが、即ちこの生物がもつ条件反射のメカニズムを応用し自己や他者の情動に変化を与えることができれば自分を含めた人を動かすことができるということになる。
レモンをイメージさせて唾液を分泌させるように、ある任意のイメージを想起させてターゲットとする感覚を引き起こし、期待する行動へと誘導する。
ある共通の文化的背景の中で多くの人が後天的に身につける条件反射のパターンというものが確実に存在するので、そのパターンに嵌め込むということである。

その際に無視できないのは織り成される言葉がもつイメージ喚起力である。人は小説を読むと脳内に像を描き、時には登場人物が経験する感覚に自身の感情を半ば無意識的にシンクロさせてしまうということがある。またギリシャ神話で用いられた物語のパターン-少年が旅立ち自らを鍛え悪に立ち向かい真の父親に出会うというパターン-では条件反射的にアドレナリンを分泌させるので数々の物語に応用されている。(忠実に従ったものとしてSTARWARSが有名であるのだが)

ローコンテクストな芸術作品を見た時にアーカイブの量と質によって感じ方が異なるのもこのメカニズムによるものだろう。吸収してきたアーカイブによって後天的に作られる回路がそう感じさせるのである。一方で長調では明るく、短調では切ない感覚を覚えるのは無条件反射に属すると思えるがこの辺りはドーキンスの進化論で示された文化ミームとの関わりから後ほど詳しく書くことにしたい。

集合知はオーガナイズされる段階に進む

World Wide Webの生みの親であるティム・バーナーズ・リー氏も指摘するように、個人情報が漏洩する危険性は日に日に強くなっている。ソーシャルネットワークにポストする情報はもちろんのこと、ネットワークに接続されている限り我々の位置情報は逐一記録されているし、昨年話題になったようにスマートフォンは指の動きを常に記録している。米国では50以上の団体が小型カメラや赤外線を装備した無人機の利用を許可されている。

こうした合意なしに取得されてしまう情報を恣意的に削除したり堰き止める手段はサービスやデバイスを使わない以外に今のところほぼないので、個人でできることは余計な情報を自ら流さないようにするくらいだろう。

今はまだ個人データの利用方法が成熟していないので事態は表面化していないものの、遅かれ早かれ騒がれることになる。集合知が「集める」段階からオーガナイズされるレベルに今後進むのはほぼ間違い未来と言えるからだ。
つまり個人がなんらかのインターフェイスによって入力したデータ(本人がいとしようがしまいが)によって次なる価値を生み出す試みである。

ソフトウェアにおける機能と芸術性

今世界で最も注目すべき話題はBRICS銀行の動向だろう。東京にいるとそんなこととはまるで無縁のように感じられてしまう。メディアを中心にそういった世界の大きな風の流れをセルフディフェンスのようにふわりと何事もないかのように受け流す在り方がこの国の閉塞感を作り出すひとつの要因になっている気がしている。ドル中心の経済は数年後には大きく様変わりしているのだろうか。

ところでソフトウェアにおける機能とは車にとってのエンジンやステアリングといったものに過ぎない。
すべて揃って動けばそれは車と呼ばれるがそれだけでは車でしかない。だから私たちは多様な車を生み出し、選ぶ。シート、ハンドル、ペダルの位置関係やハンドルを切る重さ、エンジンの音、サスペンションの効き具合、そうしたものをトータルでイメージして具体化するということがソフトウェアにも求められるはずだがそういったデザイン性、つまり体験をデザインするということがあまり重視されていない。このデザインは技術と深く関わっている以上いわゆるデザイナーというよりむしろエンジニアこそ手がけるべき領域である。もっとソフトウェアが芸術であるという理解がされていいし、エンジニアはアーティストと認知されるような仕事をしていかなければならない。
そしてそれができるのは多くの場合個人である。

書評『The Lean Startup』

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あなたのプロダクトにある問題が起きていることに、あなたは気づく。そこであなたはこう考える。

Can we built a solution for that problem?

答えはYesだ。さて、この問題解決に着手しよう。。。

知っての通り起業家のためのバイブルとして各国で圧倒的に支持される本書は日本でも邦訳が出るらしいが原著を先々月頃から読んでいたので、一足先に書評を書いておこうと思う。と、書ければベストだったのだがもう出ているらしい。
原著で読む場合はAudible.comで著者Eric Ries本人が読んでいる朗読が手に入るのでこちらもお勧め。

要旨としてはスタートアップビジネスにとって、早めにMinimum Viable Productと呼ばれる最低限の必要機能を備えたプロトタイプを世に出し、サービスの作り手の想像の範疇で試行錯誤するのでなくユーザーが真に望むサービスへの改良をフィードバックループの中から探れというもの。Lean methodからすれば冒頭に書いた問題解決のプロセスからは3つの問いが抜けている。

1.Do consumers recognize that they have the problem you are trying to solve?
2.If there was a solution,would they buy it?
3.Would they buy it from us?
4.Can we built a solution for that problem?

つまり限りあるリソースの中で着手する前に顧客が望んでいるか。
言うはたやすいが、一度でもプロダクトを世に問わせたことのある人であれば、行うに難い場面をいくらか想像できるのではないか。可愛い我が子のデビューはスティーブジョブズのプレゼンテーションのように完全に整えられた状態で飾らせたいと思うのが親の常であるだろうし、本書にも書かれているが皮肉なことにユーザー数も収益も少しあるより”ゼロ”の方が人は可能性を感じるので、作り手含む関係者各位の期待を裏切るまいという心理が働けば完成品への拘りが尚更生まれる。
膨大なコストをかけて完成させたプロダクトや新機能が蓋を開けてみたらユーザーの望むものではなかったという著者のIMVUでの苦い経験(実際には投資家や従業員からのプレッシャーを考えれば相当な苦難だったに違いない)から語られる教訓には相応の説得力が込められている。

アントレプレナーが直面する各フェーズに沿って本書は進行していく。米国一のオンラインシューズストアでAmazonに好条件で買収されたZaposやHP、Facebook、Dropboxなどシリコンバレーのスター企業がフレームワークのテストケースとして次々と挙げられ、Zaposについてはトニー・シェイ『ザッポス伝説』がこれまた面白いのだが、アメリカ最大のオンラインシューズストアもはじめは小さな実験からスタートしている。オンラインで靴を買う需要が本当にあるのか試すために、ネットでオーダーが入ると靴屋から商品を全額で買い取り郵送で送るという地道な作業を繰り返した。
本書ではこの過程を著者が説くフレームワークの一部を当てはめ、それがどうプロダクト改善のためのプロセスに有用だったかを解説している。

本書の何が新しいのか。全て想像できる範囲内にあるという意味においては正直これといって新しいことは何もない。ただあまりに有名になった数々の成功神話と固定観念と、そして創造者であるがゆえに持つ衝動から離れ、泥臭くも賢明な創造の舞台に上がる前の手人文字としてこれ以上のものはないだろう。NIKEのキャッチコピー”Just Do It”式のギャンブルでなく再現可能な科学として抽象化できる教訓はこれが限度ではないか。私たちが知っている美しいプロダクトはそのプロダクト程美しくないプロセスで生まれている。