なぜチップ制度は存在するのか

チップ制度というのは日本人にとってはあまりなじみがないので、はじめ色々と疑問が起こる。何も疑問を持たずにただそういうものだと受け入れられる人もいる。でも世の合理不合理を追求するのが仕事のような日常では、つじつまのあわない慣習を何食わぬ顔で飲み込み咀嚼するということは殆ど不可能だ。はじめからチップを支払うのが前提ならなぜ正規料金をチップ込みの値段にし従業員の基本給を上げない?タランティーノの『Reservoir Dogs』でチップシステムの奇妙さを饒舌な台詞で聞かされている場合はなおさらだ。

たとえば昔、特定のレストランに足しげく通いながらもチップを払わない、という行動をしていたことがあった。今となっては奇行と言っても良いほど不可思議な行動だ。チップを払わないことはそのサービスを否定していることと同じであるから、否定しながらも頻繁に訪れるとしたら嫌がらせに他ならない。必ずチップを払うようになると、従業員の態度が目に見えて好意的になった。このことはたかだか数ドルのチップが彼らにとっていかに無視できない何ものかであることを示している。

以後、種々の文化的背景を持つ友人とこの話について議論し、同時にチップを支払うことを習慣化していくうちにチップ制度の精神性を徐々に会得するにいたった。こうしてチップの起源を察するに2つの仮説-性善説と性悪説-が導かれる。

第一に、日本の接客業において常識となっている態度、全ての顧客に対してその顧客が何者であってもできるかぎりの接客を行う、というごく自然な前提は西洋にはないらしい。少なくともアメリカにおいて人々の道徳教育は行き届いていないので、従業員が経営者の目を盗み瑣末な接客を行うことは常に起こりうる。したがって、チップは人々のサービスレベルを一定に保つ為の経営戦略が自然と慣習化したという、ダニエル・ピンクによって否定された一種の成果報酬制度である、というひとつの仮定だ。

第二に、使用人という文化になじみの無い国民にはプライベートなサービスという感覚は掴みづらい。日本において公の場での接客業といえば特殊な業務を除いて不特定多数への接客という意味合いであることが殆どで、たとえ一度に接客するのは一組の客であってもその客はあくまでワンオブゼムであるという考え方だ。対して使用人の文化が一般的だった文化圏では、たとえ一度に数組の客を抱えていても関係性は1対多ではなく、1対1となる。チップを介する接客においてサービスとは主人に対して行うもので、客はその場において主人になり、主人であればサービスに対し当然報酬を支払う、という考え方だ。この関係性ではチップは報酬であり礼であるから、チップを支払わないのは礼を行わないのと同じことなのだ。

教養という名の言語

最近アメリカ社会でのエリートと呼ぶにふさわしい人物と話をする機会があったので、文化的な話を色々ともちかけてみると案の定盛り上がった。教養がある人というのは、大抵何か共通した印象をもつ。それを言葉で説明するのは難しい。

教養とは何だろう。英語ではcultureなどと訳される。それは文化とイコールなのだろうか。教養は持つものと持たないものをつくる。社交界やアカデミーにおいては教養は共通言語として働き、持たないものはそのコミュニティの中での尊敬を得ることが難しくなる。どれだけ裕福か、例えば年収がどれだけあるかといった指標は客観性をもつので比較しやすいのに対して、教養の程度は数値化できない。社会的には力がありながらも教養が無いと、時として品がなくまた精神的な成熟さを欠くように見える。

教養が一部の人々の共通言語として機能するのは、それが知的好奇心を示すひとつの指標になりえるからだろう。知的な人々にとって幸福をもたらすのはその知的な好奇心や感性を刺激するものであるはずで、知的好奇心がなければ共感できない対象への理解を表明することによって、互いが知的刺激をもたらす間柄であるということを暗黙のうちに確認し合う。歴史のロジックを読み解くのもおもしろいが、世界の古典的名作はしばしば単純な言葉では表現できない微細な情緒を含む。そうした豊かさを感じられる心こそ人々は教養を通じて確かめあうのかもしれない。誰だってドラマチックな瞬間が好きだし、それを台無しにして興ざめさせられたくない。私の知る限り教養のある人々は得てしてロマンチストだ。

だから教養は俗に思われているような高飛車な差別主義ではない。特別な飲み物をもってして研ぎすまされた味覚を確認しあうように、ある種の知性や感性に間する純度の高いメディアによって瞬時に人々を結びつける高度に抽象化されたコミュニケーションである。

ウディ・アレンの『SMALL TIME CROOKS』(おいしい生活)という映画がある。偶然億万長者になってしまった無知な夫婦が方や社交界で通じる人物になるべく家庭教師のもとで学び、方や元の俗的な暮らしを取り戻すべく二人は離別するという話だ。ババ抜きやインディアンポーカーにふけってグルタミン酸でどろどろの中華料理とピザを食べるレイは滑稽だが、「教養のある人」となるべく退屈なデカダン演劇に浸ったり辞書で覚えたAのつく難しい言葉を並べ立てるフレンチは更に滑稽だ。だって教養とはおそらく衣服のように身につけるものではなくて、身そのものなのだから。

3つのキーテクノロジーと近い将来の予測

1. Webブラウザが相対的な重要性を増す

Web上のソフトウェアインターフェースの多くはJavaScriptによって書かれている。これは多くのWebブラウザがECMAScriptとして標準化された仕様に準拠し実装されていることに依る。一方でJavaScriptには決定的な速度的制約がある。
高速化を阻んでいる最初の要因は実行時に機械語に翻訳される点である。JITコンパイラが登場しインタプリタ方式の時代から比べて高速化したが、事前にコンパイルされ最適化されるネイティブコードの実行よりもはるかに遅い。通常ネイティブ言語で書かれたソフトウェアは環境(特にCPUアーキテクチャ)に依存するのでオープンなWeb上のアプリケーションを記述するのに向かなかった。
もうひとつの原因は言語仕様上の特性にある。動的型推論、擬似的なクラス、配列の不在により柔軟性がもたらされている反面、実行時チェックによるオーバーヘッドが常にかかかる。
こうした速度上の問題を解決するために各ブラウザベンダーは様々なアプローチをとっている。MicroSoftは静的片付けやクラスの拡張機能を持ったTypeScript、Mozzilaはasm.jsという形でより最適化されたJavaScriptにより高速化させるという方針を進めている。一方でGoogleは同様な傾向のDartに加えてコンパイル済みのネイティブコードを直接ブラウザ上で動かすことのできるPNaClを推進している。これはLLVMにより生成された中間コードを配布実行することで第一のボトルネックであるマシン依存とネイティブコードによる実行速度のトレードオフを解決するものだ。
こうした傾向が進むことでブラウザ上のWebアプリケーションとこれまで端末に依存していたネイティブソフトウェアとの実行速度が縮まり、Web上でダウンロードした大規模ソフトウェアをそのままブラウザで実行することが一般的になる。ChromeBookはまさにこのような未来を想定してデザインされている。

2. マイクロマシン(ナノマシン)技術が日常を覆う

組み込みコンピュータはすでに私たちにとって身近なものとなっている。例えば信号機、自動販売機、家電、車などありとあらゆる機械は今や内臓コンピュータの助けなしではあり得ない。一方でこれまで機械加工により製造されていた各種構成デバイスがフォトリソグラフィを中心とする半導体集積回路製造技術により制作される小型のMEMS(Micri Electro Mechanical System)に置き換わっている。MEMSは従来の機械構造を集積化しシリコンウェーハ上に構成するもので、東北大学の江刺正喜氏が世界的権威である。特にマイクロセンサや通信モジュールの小型化高性能化によりこれまで実現できなかった高度なデバイスが構築できるようになってきている。さらにFPGAまたはPSocといったプログラマブルなマイクロコントローラは従来回路図上で行っていた回路設計や論理合成をソフトウェア上で実現可能にし、ちょうどWebコンテンツの制作が民主化したのと同様な現象が起こる。これにより多種多様なデバイスが世の中に溢れ、私たちの日常的な環境はマイクロマシンで埋めつくされるようになる。ウェアラブルコンピュータという言葉はこの傾向の一面を切り取ったものに過ぎない。

3. 分子コンピューティングと人工知能の基礎が芽生えはじめる

今日のあらゆるIT技術は人工知能に向かっているとも言える。それは一言で言えば人間が避けるべき仕事を人間よりも高いパフォーマンスでこなしてくれる存在だ。AppleやGoogleは来るべきこの未来のためにテクノロジー企業を買い漁っている(ように見えないだろうか?AppleはともかくGoogleは間違いなくyesだ)。
しかし人工知能の実現にはコンピューティングの更なるパラダイムチェンジが必要である。2004年のIntel Pentium4を最期としてプロセッサ単体のクロック数上昇は止まり、(並列処理による進歩は続いているが)これは電子回路によるコンピューティングの限界を示唆している。コンデンサの集積密度が上がるほどに電力と発熱の問題が深刻化するためだ。
そこで次世代のコンピューティングは量子コンピューターに委ねられるという世論があるが、近い将来より実現の可能性が高いのは量子でなく分子によるコンピューティングだと思われる。量子コンピューターには依然解決困難な壁が多くあり、また特定の演算向けとなるのに対し、ナノテクノロジーによる汎用的な分子コンピューティングの基礎研究はすでに一定の段階に入っている。1kgのラップトップPCサイズの物質が10の25乗個の原子を含んでいるとすると、潜在的には10の27ビットのメモリを保存でき、また過去1万年の全人間の思考に相当する計算を10マイクロ秒で実行可能な能力があると言われている。
ソフトウェア分野での鍵となるのはパターン認識とそれによる機械学習アルゴリズムでありこの手の研究は方々で行われている。ソフトウェアの性能はハードウェアと日進月歩なので詰まる所コンピューティングの進歩次第となるがこの萌芽が近い将来顕在化し始めるだろう。

明瞭な米国の雇用の概念

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NPRを聴いていてニュースキャスターがいくつの雇用、という言い方をしているのが気になった。USのメディアではしばしば、例えば失業率は7.9%に対し政府が169,000の雇用を追加した、そのために月々$85Billionの予算をかけている、AppleはAppStoreによって290000の雇用を生み出した、といった記述を目にする。こういう伝え方がされるのは雇用という概念に対してそれを一人分の仕事の単位で捉える価値観が前提にあるからだろう。一言で言えば客観的だ。

日本で雇用というと企業文化的な視点で語られることが多い。採用の時期を早める、定年の時期を早くする、非正規雇用を一定期間後に正規雇用に変えなければならない法案が可決される、こうした情報はどれも雇用される数が一定数ある中でどう調整されるかという流動性の問題であり、流動性の問題は企業文化に依存しているので結局ローカルかつ主観的なテーマに行き当たる。

例えば給与の多い年配層一人を早く退職させて若年層を数人雇うのが良いという主張は一見合理的でも、そもそも企業側が企業の論理と当事者の意思で決めることなので外部がこうすべきと言うのはナンセンスである。こうした誰が損をして誰が得をするというゼロサムゲームを解いたところで均衡に近づくだけで総和としてはプラスマイナス0だ。むしろ経済活動の発展に上限値はないのだから潜在的な仕事も無数にあり、仕事の絶対数を増やすことで問題を解決しようとする方が合理的だ。ちょうど家計において収入の使途の配分を調整することで解決しようとする問題は全て、収入を増やすことで解決するのと同じようにである。そしてこの時、雇用とは数であり、増やすものとなる。

雇用の問題が重要なのは生きることに直結しているからだ。雇用が増えることは社会にとって生き方の選択肢が増えることを意味する。だからあらゆる創業は明らかに有害であるものを除いて有益であり、事業家は雇用されれば-1になっていたパイをプラスに変えることで潜在的に社会に貢献しようとしている。

信用

世の中は信用で動いている。人が信用を買い、信用を基に関係性を構築するのは未来は予測できない一方で時間は刻一刻と進んでいくからだ。誰もが有限の時間を無駄にはしたくない。信用を選びとることによって、不確実な未来の精度を高めることができる。銀行が貸し出しを行いマネーサプライを増やすことを信用創造(Credit creation/Money creation)というが、本質的に同じことだ。

以前”垂れ流し続けているような感覚”で事業主がもつコスト感覚について書いたが、信用に対する感覚も事業主とそうでない人達では異なる傾向にあるのかもしれない。信用とは作るのは困難で失われるのは容易いとよく言われる。我々は常に、一度信用を失えば最後というつもりで生きている。ビジネスにおいて信用が回復するまで根気よく面倒を見てくれるような相手は存在するはずがないので、失えば即ち関係性の終わりというコンセンサスがある。これは関係性が関係し合う双方の意思によってできているからだ。組織に属する場合の多くは関係性が第三者によって決められるので、二者間で信用が失われても関係性は簡単には崩れることはない。例えば学校の教師と生徒は学校組織によって”偶然”作られた関係なので、生徒が教師を評価していなくても関係は維持される。第三者に委ねられた関係性は崩れにくいので信用を回復する時間が与えられる。だから回復するまでの時間を不快感で満たさないために謝るという行為が意味を持つ。本来謝ることには気持ちを穏やかにさせる以外なんら意味はない。謝っても事実は変わらないので、特にビジネスにおいては無意味だ。

世界一周をしてはいけない

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自分にとって無害な他人の趣味や行動を否定するのはナンセンスだが、何かを終えた影響力のある人達はしばしば世界一周に向かうらしく、こうした傾向がこの国である種のブランド性を帯びつつあるなら奇妙である。

若者は世界に出ろという助言がメディアを通して毎日のように吐きだされている。真面目な若者はそれを聞いて真に受け、危機感を覚えるかもしれない。危機感というテーマはこの国とって重要な問題なのでそれは悪くない。ただ、世界に出る理由がないのに出ようとする意味は全くない。
例えば7日間の海外旅行ツアーでどこかの国に行くことには、景色と食べ物が変わる以上の意味はない。念のため景色と食べ物が変わることに意味がないと言っているのではなく、それ以上でも以下でもないという意味だ。そして一般的に行われる世界一周とは、このツアーのようなものが1年程度の間連続したものと殆ど相違ないと私は思っている。
まず第一に、各々が短い。どれだけ密度を濃くしても人間の物理的な新陳代謝の速度には逆らえないので、細胞がその土地に溶け込むのに絶対的な時間の経過を待たなければならない。経験上、外部環境が血肉化するのには通常、最低でも数ヶ月の時間を要するので、数日や数週間の滞在でその土地外部からの視点が一定以上抜けることはない。外部としてその土地と接している限りは新たな客観性を得ることがないから、己を見る目も自国を見る目も大きく変わらないし養われない。そしてこれらを獲得することこそ必要に迫られない状況で世界に出る場合の殆ど唯一の意味であると思っている。

仮に丁度一年の期間をかけて世界の20都市を回ろうとしたとき、48週間÷20=2.4週間しかひとつの都市にいることができない。そして2.4週間は内部者として適応するには短過ぎるし、具体的な理由がなく居るには長すぎる。例えばキューバのクラーベのリズムを体得するとか、ニュージーランドの大規模ファームの収穫期に関与するとか、そういう理由である。そういう類の目的を体験レベルでなく遂行するには通常まとまった期間が要る。

ピースボートという企画がある。これは世界一周が目的というより、移動する客船という特殊な環境下の長期的に固定された人間関係の一部になるというのが主旨であって、客船が世界一周をするという装置はそれがなくては成立しないものだからこれは特殊な例と言えるのかもしれない。

要するに世界一周をするなら、それよりも最低数ヶ月間ある土地でまるでそこの住民になったかのように生活してみる方がいい。幸い日本は国際信用度の高い国なので数カ月程度なら大抵の国で難なく滞在許可が下りる。最も基本的なことはある国に行くという単に手段に過ぎないものを目的と混同しないことであり、明確な目的なしに海外に出ても退屈なだけだ。具体的な目的があり、それが達成に近づく頃には自ずとその土地の内部へと接近しはじめる。私は幸運にも世界各国の主要な都市に友人がいる。彼らの殆どはその時その時で人生の目的の一部分を共有してきた仲間だからその存在を忘れることはないし、目的が明確なのでどこにいても助け合うコンセンサスが自然と生まれている。今この時代で必要なのはそういう仲間だといつも思っている。

純粋な鑑賞の嘘

人は不可逆的な時空の流れの中に生きている。整然と、まるで永遠に存在するかのように現代に残る絵画も一方向に流れる時間のある瞬間において生まれた。写真から派生した絵画は、写真が備えていた瞬間を切り取るという目的同様に、その時代の情報から切り離すことができない。

生物が進化の過程を遺伝子内部に塩基のコードとして書き込むように、画家は写真機が取り込むことのできる光の像を越えた時空の片鱗を一枚の絵に遺す。画家はその絵がもつ殆ど全ての情報を授けた母であり、歴史が画家を生んだ。言い換えれば、作品には意図せずとも介入の避けられない歴史と蜜月な作家の知覚の情報が刻まれている。とりわけ作家は作家であると同時に鑑賞者でもある。全ての創造は過去のアーカイブの継承である。

より純粋でニュートラルな状態で作品を鑑賞したい、だからあえて予備知識のないままミュージアムに足を運ぶのだという人がよくいる。その行為自体は何ら咎められるものではないにしろ、最も純粋な状態でその作品を鑑賞できるのは、即ちそこに込められた情報を過不足なく共有できるのはこの情報を与えた製作者本人を除いて他にない。そして現代に生きる私達にとっては知識という形で情報を獲得し、彼らとは物理的に異なった時間軸上に生きているために生じるその知覚の溝を埋めることで作品に接近することこそが、かろうじての純粋な鑑賞と言えるのではないだろうか。

Be first, Be smarter, Cheat

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東京に帰ってから二ヶ月が経った。
複数の事情が重なって春になるまでは日本にいなければならない。

私の友人であり同時にアメリカにおけるメンターでもあるチャドはPayPalのファウンダーの一人であるPeter Thielをクライアントに持つ投資会社のアナリストで、前歴はフォトグラファーとしてインターネット業界に関わった後ハーバードの大学院でファイナンスを学びVCやPrivate Equity業界に転職した。

彼がWestfieldのカフェで話してくれた感動的なアドバイスを忘れないように書いておこうと思う。

「ビジネスを成功させるには、次の3つの鉄則がある。
“Be first、Be smarter、Cheat”
カズは最初の2つは大丈夫だから、あとは最後だね。この辺は中国人がとてもうまい。僕も前の会社にいたときは会社には内緒でインターネットビジネスをやっていたんだ。

僕の祖母は一昔前にすごく成功した経営者で、Landonっていうファミリーネームは祖母の家系のものなんだけど、彼女が僕によく言っていた言葉がある。どんなものでも売れるんだって。

これは僕がフォトグラファーをやってたときに関わっていたwebサービスで、観光業者向けにハワイとかリゾート地の写真や動画を販売するサイトなんだけど、このハリネズミの動画ひどいだろ?これ僕が撮ったんだけど、本当にひどいよね。でも売れるんだ。

このサイトは最初の年は購入してくれたユーザーは0で、次の年は10人だった。その次の年は50人くらいだった。

もうやめようってことにもなってたんだけど、徐々に写真や動画の素材も増えてきて、5年目あたりで一気にユーザーが数千人に増えて売り上げもそれなりの規模になって、最近他の会社に売却したんだよ。どんなサービスも売れるまでには5年くらいは必ずかかる。

これ見て、HDの最高画質のだと100ドル以上もして誰が買うのかって思うよね。でもほら、これを見ると12人も買ってる。

こんな動画でも誰かにとっては重要で、買う人がいるんだよ。」

21世紀のこれからもアメリカは世界の覇権を握り続けるか

アメリカという国はすでに一国を超えた超国家であり、もはやアメリカ人の国ではない。世界で最も優秀な人材が集まり人類が抱える最重要かつ最先端の問題に取り組んでいる特殊な地域である。アメリカの諸大学以上に魅力的且つブランド力のある研究機関が世界のどこかに突如として現れない限り、世界中の最も優秀でビジョナリーな人々はアメリカに集まり続ける。その限りにおいてアメリカは世界の覇権を失うことはない。
 
歴史を辿ればアメリカは卓越したメディア戦略を用いて今ほどのプレゼンスを獲得してきた。日本では太平洋戦争終了後にアメリカの統治下におかれたが、このとき日本国民をアメリカ文化に馴染ませるためにアメリカンホームドラマや映画がテレビで積極的に流された。こうしてパンやコカコーラやアメリカのファッションなどが容易に浸透し、事実上の半植民地的な風土が出来上がる。1980年から90年にかけて、共産主義地域であったモスクワを含む世界中の文化圏に流通した衛星ミュージックチャンネルMTVはアメリカ文化の世界的プロモーターとなり、これと期を同じくしてマクドナルドは世界に店舗を広げている。文化経済一体型グローバリズムの最たる事例である。
  そして今、このグローバリゼーション戦略を全く同様な形で実践しているのが韓国である。  
古き良き韓国への共感を呼び起こす冬のソナタに始まり、東南アジア諸国を中心にファンの拡大を続ける少女時代らのK-POPアイドルに至る一連の国際的メディア戦略は、97年に事実上独占禁止法が解禁され力を蓄えた三星電子、LG、現代自動車製品のプロモーターとして機能している。主要輸出先である中国、香港、シンガポールをはじめ、マーケットが拡大し続けるインドネシア、フィリピンなどのASEAN地域ではTOYOTAやHONDAのSONYのロゴはHYUNDAIやKIAやSAMSUNG,LGにまるでオセロのごとく急速に塗り替えられつつある。
 
2020年にアジア市場(ASEAN+日本+中国+韓国+インド)は16兆ドルの消費額に達しアメリカ、EUを抜いて世界一になると言われている。このアジア市場を制する者が世界をリードするならば、現在着実にその地盤を固めつつあるのが韓国であり、その延長線上には見かけ上韓国が世界のトップに跳躍する像が結ばれる。
  なぜ見かけ上なのか。    
1997年のアジア通貨危機でデフォルト寸前の状態にまで追い込まれた韓国は、IMFの経済介入を受け入れ、財閥の解体政策とともに、翌年、外国人による国内株式投資および債券投資への制限を撤廃し、外国人による敵対的M&Aを許可する。その結果、三星電子、現代自動車の外国人保有率は50%を超え、韓国有価証券取引市場全体での外国人保有率は2004年には42%に達した。韓国最大の銀行である国民銀行の筆頭株主は、Bank
of New Yorkである。  
つまり韓国マーケットの主要な大株主は非韓国である。三星も現代も自力で経営をコントロールする権利をすでに手放している。
また、GDPの80%以上を貿易に依存する韓国の最大の顧客はアメリカである。    
一方、50年前に時計の針を戻すと、この韓国の状況は2000年初頭のバブル崩壊後にアメリカからの関心を失うまでの間の日本の状況に似ている。
戦後の高度成長期に至る過程で、アメリカから総額18億ドルのガリオア・エロア資金援助を受けて復興開発が促進され、1ドル360円の固定相場制のもと輸出を伸ばし経済復興を遂げた。日本は地理的にアジア太平洋地域における拠点となり得たので、アメリカにとっては事実上の植民地として支配権を握ることが即ち太平洋経済圏での力を掌握することに結びついた。日本にとっては日米安保による軍事的な依存状態があったし、なによりアメリカに追従することが復興への近道だった。
 
そして社会学者エズラ・ヴォーゲルが著書『ジャパンアズナンバーワン』を出す頃、日本は少なくとも表面上は世界のトップに躍り出たかに見えた。
確かに日本の自動車や家電製品は売れたが、軍事的、経済的にアメリカに依存し、コントロールされる体質は変わらない。  
アメリカはすでに1兆ドルを超えるアメリカ国債を日銀に買わせている。これは輸出企業がアメリカにものを売り、稼いだドルの最終的な行き先であり、言い換えれば日本国民はこれだけの資産を現実的には返らないアメリカの信用商品に奉納金のような形で積み立て続けてきたとも言える。
     
正義の国としてしばしばプロモーションされるアメリカとは日本にとって何なのか。主権の確保と繁栄がカードの表と裏の関係にあるとき、いかなる選択肢をとるべきなのか。
移動が容易になり、万人が自己相似的にシステムに組み込まれているこの世界では誰もが無関係ではいられない。
これらの問いはアメリカが没落し、持つ者がますます富を集める現在の金融資本主義システムが終わらない限り付き纏い続けるだろう。

【Note】アメリカの銀行口座の手数料、維持費用に関するまとめ – Chase Busiess Select Checking Account 2012

 

銀行口座(Business Account)の開設が取得したTaxIDを使って意外にすんなりできそうなので、銀行でもらったパンフレットを読み様々な処理にかかる手数料に関して勉強した。

どうすればそれらのFeesを減らせるかという観点からまとめている。

 

ちなみに開設した支店はMarket Street沿いのChaseだが、ざっと調べた限り手数料ではBank Of Americaもほぼ変わらないという印象である。

またフランスでソシエテジェネラルの口座を使っていた経験から言えば、チェックの仕組みをもつ西欧の銀行の手数料システムはほぼ共通化されていると思われるのでアメリカ以外の国で口座を開設する際にも参考になるかもしれない。

ChaseはJPモルガン・チェイスアンドカンパニーの傘下にある銀行だが、JPモルガン・チェイス・バンクは2011年にバンク・オブ・アメリカを押さえ総資産で米国最大となった。

CitiBankという選択肢もあり、世界の多くの主要都市に支店があること、ドル送金が手軽にできるというメリットがあるが、

送金については銀行間取引よりもPayPalを経由する方が得策なので、米国内でのサービスを追求するならChaseということになるだろう。

 

以下まとめ。

 

1. 月々$15のService Fee

・口座内の平均金額を$7,500以上に保つ

・紐づいたクレジットカードで$1,000以上使う
・$50のqualifying checking account feeを払っている
・紐づいた個人口座がqualifiedである

– $7500以上常に入れておくのが確実

 

2. 超過引き落としが起こった場合のOverdraft Fees

・十分な金額を入れておく以外にない

もしこのFeeが発生すると、件数ごとに$34のInsufficient Funds Fee,$15のExtended Overdraft Feeなどそれなりに徴収されるので気をつけなければいかない

 

3.ATM,DEBITカード使用時に発生するFees

・基本的にChase以外のATM等を使うときに発生(ATM$2、Debit引き出し3%か$5の多い方)
・海外で引き出すと$5、通貨変換に3%

 

4.その他のFee
・預金される予定の取り引きが失敗(支払い側が残高不足など)した場合に$12
・チェックでの支払い取り消し処理$30
・200トランザクションを超えると1トランザクションごとに$0.4
・最初の$7500以外の追加デポジットに$1000あたり$1または$1.5

 

5. 送金
・米国の他の銀行からの転送入金は$15
・米国の他の銀行への転送は$30または$25
・他国の銀行とのやり取りは$45または$40

 

6. 特殊な処理
・口座への法的な措置への対応や寄付金など

 

7. ONLINE BANKING
・チェックごとに$14.99など

 

*Overdraft protection

Overdraft protectionを設定しておくと、チェックの預金額が足りないときに$10のプロテクション手数料が発生し、通常の預金から支払いを行ってくれる。
Chase.comのCustomer Centerから設定できる。

 

 

*Free Account Alerts

様々なFee発生が起こりうる場面でアラートしてくれる無料サービス。
Chase.com/freealertsで設定できる。

 

 

日本のメディアにはセレブリティという概念がない

今月はロサンゼルスにあるスタートアップハウスに籠ってプログラムを書いている。オンラインスポーツネットワークのスタートアップを経営するジョーダンが、親戚が所有する別荘を最大十名程度が寝泊まりしながら作業ができるように開放しているもので、オフィスはプールやバスケットボールのコートがある庭の一角を占めるガレージを改造した部屋から1分足らずで行き来出来る場所にある。(それにしてもアメリカのスタートアップ関係者は本当にガレージが好きである)ロサンゼルスといってもワーナーが近くにある、かなり外れたところにあるので車を使わない限りどこにも行くところがない。サンフランシスコでは毎晩のようにスタートアップ関連イベントかまたはサルサに通っていたので、生活はがらりと変わった。来月は再びサンフランシスコに戻る。

 

日本のメディアにはセレブリティという概念がないと思う。むしろ格差を隠蔽して総中流を演出するのが日本のメディアの目的の一つだという指摘もある。例えば国内でも有数の俳優が街中の庶民的な店で飯を食い、上手そうな演技をする。たとえ本当に上手くとも、そこに据えられた意味は、私と君達は一緒だというメッセージである。

2000年初頭のITバブルの頃、初めてメディアの中にセレブリティが登場する。つまり大衆とは異質な存在であることを公に主張する者が現れる。新種の存在が現れるときには必ず象徴というものが必要で、六本木ヒルズはその役割を果たした。

要するに日本におけるITバブルの終焉とは、メディアの中でのセレブリティという存在を改めて否定し、高度成長期の旧来の価値観に揺り戻す儀式となった。運動会で全員手をつないで一斉にゴールをするという話があったが(想像しただけで気分が悪くなりそうだ)、皆で一斉に幸せになるというコンセンサスに希望を持てないのは、それが既に嘘であることに皆気づいているからだろう。ヒルズがITバブルの頃の新種のセレブリティを象徴したように、世代交代による新陳代謝を繰り返しながらいつの時代にもメディアに現れ続け、スーパーマーケットのゴシップ紙に顔が並ぶハリウッドのセレブのような存在は、たとえ世界が狂い始めようともこの国には新しい成功がどこかにあるということの象徴としてあり続けている。

 

クリエイタークラスと高度成長期以後の組織論

“肥り過ぎて没落した国家”と言われる日が来るのではないかとも言われるアメリカ社会、見渡す限り肥満体ばかりである。

他の地域はましと聞くがSFベイエリアだけがこうなのではないと思う。食文化が粗末なアメリカで何故ここまで肥満が増えるのか、原因は要するに手持ち無沙汰だから、つまりこの国が物質的には豊かでありながら文化的には貧しいという本質的に悲しい性質を抱えていることに依るのではないだろうか。

 
話は変わって高度成長期と現代社会を比較してみると、クリエイタークラスが現代社会に特に適応性が高いことの合理的な説明ができる。まず高度成長期は大規模開発が産業を牽引するので、必然的に大規模な組織が活躍する。大規模な組織というのはマクドナルドの店員を束ねる店長を束ねるマネージャーを束ねるゼネラルマネージャーを…といったピラミッド構造をとるのが効率的だったので、店長からゼネラルマネージャーまでの階層、つまり実際にハンバーガーを作る専門的知識がほとんど必要ない人達の需要が社会全体で見ると増えるということになる。いわゆる中間管理職である。

(現実に現場の店員もハンバーガー製造マニュアルに従って作っているだけなので専門的な知識はほとんど必要ないが、イメージしやすいモデルとして)

 

そしてやがて高度成長期は終わる。このとき残された資産として特に重要なのはインフラよりもむしろ生産のための生産財である。つまり飛行機そのものよりも飛行機を作る技術とインフラである。なぜなら大規模開発が一通り進むと、より細分化された需要を満たすための産業が発達するので、こうした生産のための生産財を使って新しい価値を生み出す小回りの効くスモールプレイヤーが活躍するための土壌がここで整備されたことになるからである。そうしてLLCや数あるインターネットショップのような産業が発達する。

これまで最大公約数的に人々の需要を見たしてきた大規模な組織は、こうした細かな需要を的確に捉えていくサービスに勝つことができない。かくして社会はスモールプレイヤーの時代となった。そしてスモールプレイヤーにとって中間管理職はあまり必要ではない。今大企業で大規模なリストラや経営悪化が起こっているのはこうした時代の必然である。そして相対的に必要とされる人材の多くを占めるようになるのがコンピュータ、会計、物質化学、バイオテクノロジー、グラフィックデザイン、メカトロニクス、ジャーナリズム、自然エネルギー..のような専門分野に精通し、直接的に価値を生み出すことのできるクリエイタークラスである。彼らは組織ではなくプロジェクトを中心にして活動する。このとき組織の形態としてより理に適うのは従来のピラミッド型ではなくクラウド(雲)型である。