Ice under the bridge 4 – Singapore

20120413-182159.jpg

今シンガポールにいる。バターワースから寝台特急に乗り、クアラルンプールから高速バスで移動した。
シンガポールの目に付く小学生くらいの子供達の殆どがタブレット端末を携帯している。小学生の頃にPC98やMacintoshが教育機関に配備され、中学でWindows95が一般家庭に普及した我々の世代とは見ている世界が異なるのだろう。見ている世界が違うということはそのまま異質の文化を醸成する可能性を孕んでいる。

フィリピンやシンガポールに対し、マレーシアでは英語が通じにくい。正確には訛りがきついので非常に聞き取りにくい。ますます増加する英語を話す人々にとって今後英語でのコミニケーションに支障のある地域はそれだけで敬遠の対象になるのではないかと思った。少なくとも英語が通じやすい場所の方がストレスレスで居心地がいいのは間違いない。最低でも公共のサービスで英語の通じる国とそうでない国では人の移動の流動性に大きな差が生まれるのではないだろうか。交換が困難な通貨が流通している国で物流が滞るようにである。つまり相対的に異質なものとしての立ち位置を余儀なくされるということだ。英語の通じる程度が様々な国を行き来しているとそう感じてしまう。そして諸外国から見て日本という国はまるで異質なものと見られていたし、今もそうであるのだろう。人の流動性が停滞した都市は今後都市と呼べるのだろうか。

「日本人の9割に英語はいらない」は個人に対してのタームとして正しくても、日本や東京にとって正しいとは思えない。たとえそれらを構成するのが個人の集合体であってもだ。埋め合わせられる革新的な技術資源があるなら別なのだが今のところそういったものはまだ生まれていない。

Ice under the bridge 3 – Thailand

20120412-213952.jpg

タイ、バンコクからマレーシア、バターワース行きの列車に乗っている。
バターワースはタイ国鉄とマレー鉄道の中継点であるが、バターワースからはクアラルンプールまでKTMを使う。マレー鉄道KTMは3月に貨物列車が脱線した影響でシンガポールまで運行しておらず現在クルアーン止まりだからだ。
因みに広告コピーでしばしば使われる、「マレー鉄道で半島縦断」は嘘である。マレー半島の陸路での縦断はタイ国鉄とマレー鉄道あるいはバスの組み合わせで可能になる。

バンコク、Pratunam地域はきってのショッピングエリアとだけあって平日でも活気がある。特に服屋は数、量、価格ともに卸市のようでありバイヤーなら何日もいられるだろう。タクシーに乗れば日本人と分かるやメーターを止めて運賃交渉に入るほど商売気が湧いている。そのため少々疲れることもある。

先日FacebookがInstergramを買収した。同社にとって過去最大級の買収であり、またこれまでの人員確保のためのそれとは違いサービス自体の吸収を目的にしている。よく競争相手として上がるGoogleがすでに多くのサービスを飲み込み、検索エンジンを入口としたコングロマリット型のサービスを展開してきたのと異なり、FacebookはこれまであくまでFacebook自体の改良と他社との連携という形で発展してきた。Facebook対Googleというタームが正しいかはさておき、売り上げ規模もまだ桁違いの両社はようやく比較の土俵に上がり得た段階にあるのかもしれない。勢力図はますます集約化が進むだろう。

4/11執筆

Ice under the bridge 2 – Philippines

3/13のManila Bulletinによればフィリピン政府銀行は次年度の予算における外国からの借り入れを20%程減らし、より積極的な外貨獲得に向かう方針とのことである。これは同国の経済状況が上向きにあることを示している。

一方で知人から聞く限り確かに平均所得は徐々に上がっているが、一般の労働者の給与は以前低く、月2回あるpaydayで得た収入は日々の生活コストで殆どが消えてしまう。政府からの借り入れは容易なので足りなければ少額の融資に頼り、年間で分割して希釈された額を返していく。物価も徐々に上がっているため経済成長の実感は一般の生活者にはほとんどない。ここCebu Cityでは一部の良質な新しいサービスの大半は外国からの来訪者のためのものであり、価格も現地人には届きにくいものである。いずれもGaisanoやAyalaといった中国人ファミリーや韓国資本によって出資されている。こうしたサービスの従事者はサービス価値に反して一般的な現地労働者と変わらないため、結局のところ経営部門が収益の大半を持っていってしまうという構造になっている。つまり資本投下によって発展しつつある経済の利益享受者はあくまで外資系の参入者と政府のみで、市民には還元されていないのが現状だ。
グローバリゼーションとはいえ同一労働同一賃金とは単なる逸話に過ぎないのだろうか。

Cebuanoの知人の中に看護を専門とする二人の女性がいる。彼女達は病院が併設された医療系の同じ大学を卒業した同期であり、そしてそれぞれアメリカンでGEのCPAをしているフィアンセとコリアンの彼氏を持っている。一人は6月から米国の医療機関で働くことになっており、もう一人はトロントの医療機関で働く機会を手にしている。二人とも当然英語はネイティブのように話し、移転後の賃金はもちろん現地の労働者と同一である。こうしたことは水面下で進行しているかに見えるが、それは我々が日本人であるからに過ぎないのかもしれない。いずれにしてもすでに当たり前であるかまたは目を開けた頃にはすでにより当たり前になっているだろう。

つまり想定される将来とは、障壁は言語のみであり、障壁の少ない地域間において先進地域に後進地域からの一部のスペシャリストが集中する。技術、特に科学的なスキルとそして移動の活発化に伴いより比率が高まる国際結婚が橋渡しになっている。と書いていて疑問に思ってしまった。こんなことはとうの昔から起こっていたのではないか。ただ特異な言語を使う島国に住んでいたためにその実感を得る機会が希少だったにということにすぎないのだろう。

日本とは未だ精神的に鎖国を続けている国なのかもしれない。そしてその方針に迎合する個人以外は早く外に向うべきだろう。でないと本当にエキサイティングな世界から置いていかれてしまう。

3/18執筆

Ice under the bridge 1 – Korea

20120412-211418.jpg

セブのモバイルショップは殆どがSamsungかLGである。隅にさり気なくSony Ericsonがあるくらいだ。
ここでは数年前はSony Ericssonのデバイスが人気だった。NOKIAもそこそこ人気があった。今は完全にSamsungかLGである。価格が安いわりに機能性が高くデザインも優れていると認知されているからだ。NokiaやSamsungやLGのデバイスに対しSony EricssonのSDカードの規格だけが独自規格であり、こういうことが地味に消費者離れを招いている。一方で主要ホテルのフロントのコンピュータは殆どがSamsungであり、顧客の方を向く裏側のデザインまで配慮されているところを見るとユーザーのニーズを汲んだ戦略がシェアに結びついていると推測される。

車もHyundaiやKIAは安くデザイン性が優れていると思われているが、予算のあるPhilipinoは日本車を買う。ブランドイメージが高く品質への信頼があるからだ。家電でも同じで日本製のものは壊れにくいというイメージが定着している。しかし車は工業時代のものでエレクトロニクスでは圧倒的にKorea勢が制している。
郵便局など公共システムのIT化は遅れているが、近々ここにも韓国が介入する。資金力の脆弱な東南アジア諸国にこうしたインフラを提供するのは購買目的ではなく、資源を得る契約を交すためである。直接マネーを得ることだけがビジネスじゃないということだ。

要はこれらのことはどれも日本が工業化時代に影響力を持ち、情報とエレクトロニクスの時代で他国に席を渡しつつある歴史の変遷を映し出している。デザイン性云々はともかく少なくとも製造コストの削減とユーザー志向のプロダクト設計(これらはどこにリソースを集中させるかという点では通じる)に成功しなければ瞬く間にアジアの中での存在感を失うだろう。

かつてアメリカがハリウッドやMTVなどのエンターテイメントを浸透させ、マクドナルドなどを進出させることで覇権を獲得したのと同様の戦略を韓国は着々と進めている。
少なくとも大衆メディア向けエンターテイメントや先端産業に関わるクリエイターのレベルの高さと、それを波及させる戦略性は日本をとっくに凌駕しているので、鎖国しているだけでは根本的な解決にはならないことは言うまでもない。ハリウッドムービーが世界に波及し始めた頃、フランスは制限を加え国家的に自国コンテンツの割合を保とうとした。結果的にアメリカナイズに向かわず、グローバル経済が進むほど価値を持つ文化的優位性を後世まで維持し続けたとしたら正しかったといえるだろうが、情報が容易に海を渡る現在ではもはや囲い込むことに意味はない。外に向けて発信し、フィードバックを元にまた発信するという以外にないのである。
日本がアジアでトップだった頃はPhilipinoの日本語学習者は多かったが今は韓国語が抜き、中国語も増えている。ここにいるとますます韓国はアジアのリーダーとなるポテンシャルをもっていると感じる。

2/25執筆

個の時代は人類にとっての摂理

摂理とは元々キリスト教の概念である。Providence(神意)に相当し、自然発生的に生まれ均衡の保たれたシステムを神の御業に例えて使われる。
アタリも指摘するように、人類が個人の自由の獲得へと奔走してきたことは歴史が示している。まるで個の自由がより尊重されたシステムこそエントロピーが増大した自然状態に近づくかのようにである。
このことから人間というものは生来自由を求める生き物であると仮定するならば、より個として自由に生きることが可能な時代になるにつれ、それを実践する人々の割合が増えるのは必然である。産業が複雑化すると同時に、情報で切り分けられた仕事はデジタルネットワーク上で転送可能になり、つまりこの高度情報化時代において土地への依存から土地に依存しないネットワークへの依存に変容したことが空間という一つの制約を我々から取り除きつつあるので、我々は必然的に制約の少ない方向へと歩んでいく。
個の自由とは何か。それは行動の選択肢がより幅広く、依存の少ない状態と言える。空間的な制約がなければどこにいるかを選択することができるし、時間的な制約がなければいつ何をするのかを選択できる。組織のコンプライアンスを背負わなければ、言論の制約を受けない。また給与所得による金銭獲得は給与の払い手、つまり多くの場合所属する企業からのみ生きるための資金を委ねている状態となり、ライフラインを一つの存在に握られている高リスクな依存状態と言える。子供であれば親が同等の存在である。農耕時代は文字通り土地に依存し、工業化時代は主に固定された設備に依存した。土地に依存せず携帯可能な情報デバイスを必須のツールとする現代は狩猟時代に近い。必須であるが依存しないのは道具は現地でも調達できるためだ。ソフトウェアやデータはクラウド上から引き出せる。

なぜ人々は制約の少ない低依存状態を指向するのだろうか。
多くの地上の動物は卵や胎内で生まれ、巣や親の近くで餌を与えらながら育つ。やがて自分の手足で移動できる身体能力を獲得し、自ら獲物を獲る方法を身につける。そして個として、時として他者と協力したり争いながら生きていく。こうした性質は我々が本能的に備えていることなのかもしれない。

なぜ移動するのか

生産と消費に分けられる経済活動の多くは自宅で完結できてしまう時代になった。それでも私たちは移動する。なぜか。移動は運動の延長で、運動は生命が生命たる証左なら、移動は生命活動の純粋な延長と言えるのかもしれない。生きているものは細胞が運動を続け、熱をもつ。

村上龍の小説にたしかこんな一説があった。『歌うクジラ』の末尾である。

宇宙ステーションから脱出したアキラは冷たい宇宙の闇の中で旅の途中に出会ったアンやサブロウさんやサツキという女のことを思う。そして輝く一点の光に向かって祈り、近づきつつある死を予感しながら大切なことを理解する。人生にとって唯一意味があるのは他者との出会いである。そして移動しなければ出会いはない。

喜捨餞別

私は美味いものだけを食べて生きていきたいと常日頃思っている。もちろん食べるというのは比喩だ。嫌なことは極力しないよう努力する。嫌なこととは面倒なことや苦労を伴うものでなく、自分にとって価値の低いものという意味である。苦しいことでも価値のあることはいくらでもある。価値のないことに時間を消費するのは無意味だし、不味いものを食べていると舌が劣化し食欲も減退する。そうならないために一番いいのは極力シンプルな生き方を心がけることだ。シンプルであることは執着の対極とも言える。最も簡単なのはモノを捨てることである。ものを捨てることは本当に必要なものだけを残すマインドを作り、それは結果的に時間を大事にすることにつながる。必要なモノ以外を捨てるとどれだけ不必要なもの(重要でないもの)に執着し、またそれがなくても生きていけるかを無意識のレベルで知る。
人もモノも情報も世の中は全てに関わり切れないほど溢れていて、その全体量から考えれば重要だと感じる可能性があるものですら触れ合い尽くすことはできない。だから人生の有限の時間を価値あるもので満たす努力は捨てることから始まる。世の中はトレードオフであり、得ることと捨てることは同義だ。

コンピュータの進化がデータビジュアライジングを加速する

コンピュータの進化を待っている情報産業分野というのは確実にある。動的な巨大データのビジュアライジングもそのひとつであろう。ソーシャルネットワークをはじめとするwebサービスにおけるユーザーの軌跡としてデータベースに蓄積された人知をある切り口により取捨選択し視覚的かつインタラクティブに表現することの可能性である。
それはまさにカーネギーメロンの教授でprocessingの作者であるベン・フライが扱っているような技術分野であり、実は私たちはSNS上のネットワークの視覚化すら未だまともに実現していない。フォロワーのフォロワーを網羅的に知るには、現状では最低でもフォロワーのURLを経過しなければならない。

オンライン上の結びつきが視覚化されると例えば自分の投稿したメッセージがRTされどこのコミュニティにまで波及したのかが一目で補足できる、といったような可能性が当然でてくる。このアイデアは一般ユーザーに始まり次は企業のマーケティングに応用されるだろう。

データビジュアライジングの可能性はすでにインフォグラフィックが証明している。時間の貴重性がますます意識される現代において、情報を視覚化し伝達スピードを高速化する仕事は今よりも確実に重要視されるようになる。
現状では新聞の風刺絵のような要素が強く、何より情報として固定化された静的なものであるが、コンピュータの進化がこれをアクティブにする。最初の進化は静的で一方向的な情報ソースから動的で双方向的なものに、次の進化はモバイルインターフェイスの進化による入力データの即時性と多様性から起こるだろう。

書評 『モチベーション3.0』ダニエル・ピンク

内発的動機づけは外発的動機づけに勝る。この本のテーマであるが、これだけ聞くと当たり前のように思える。しかし、一言で伝わる主張のためにわざわざ一冊の本は書かれない。

以前のエントリーで我々事業主がもつコスト感覚について書いた。
自らの行動コストと利益を逐一天秤にかけ、合理的で最善の行動をとろうとする習慣的感覚である。こうした行動の枠組みは従来の経済学では前提条件として与えられるものであった。つまり、人々は常に経済的利益を最大化する行動を選択するという前提に基づいて理論が組み立てられてきた。ブルーノ・フライが言うところのホモ・エコノミクスー経済人種ーである。

本書が引き合いに出す、報酬と処罰といった外発的動機によってモチベーションを維持する旧来のオペレーションシステム、モチベーション2.0はこうした発想に基づいている。

わたしはお守りのようなフレーズを見つけて試験に適用したおかげで、ロースクールを何とか乗り切れた。「完全に情報が公開され、処理コストが低価格の場合、当事者は、富を最大化する結果を目指して取り引きする」
それからおよそ10年後、わたしが多額の授業料を払い、懸命に学んだ内容の大半に疑問を投げかけざるをえないような、奇妙な出来事が起こった。2002年、ノーベル財団は、ノーベル経済学賞を経済学者でない人物に授けた。主な受賞理由は、人は必ずしも自己の利益を最大化することを目的に取り引きしない場合も多い、という事実を明らかにした功績だった。

その人物とはアメリカの心理学者、ダニエル・カーネマンである。カーネマンは『Thinking, Fast and slow』の著者で人間の行動の多くは無意識的判断(システム1)に寄り、意識的判断(システム2)は人間の行動を決める要因の一面に過ぎないとした。
この主張はシステム2、即ち合理的な思考によって行動することを前提とした従来の経済学に対しパラダイムシフトの可能性を示唆する程のインパクトをもっていた。経済学の常識が畑違いの人物によって覆されるのは痛快であり皮肉だが、同様なことはソロスからも以前より指摘されており、価格の均衡が合理的に決定されるという逸話に対しては現実に大きな資金を動かす金融の実践者程疑問を持っていたのではないだろうか。従来の経済学の理論が理想的な条件を基に考察されてきたのは多くの人が指摘する通りである。

さて、本書が主張する内発的動機付けのもつ優位性にまつわるフレームワークは他者をマネジメントする際に特に直接的に作用し得るし、実際に多くがそういった視点で書かれている。

21世紀は、「優れたマネジメント」など求めていない。マネジメントするのではなく、子供の頃にはあった人間の先天的な能力、すなわち「自己決定」の復活が必要なのである。

同時に、人は誰でも自らをマネジメントしているから置かれた環境によって野心の火種を絶やさないために回避すべき、または改善すべきチェック項目を持っていたい。本書はその助けとなる。

コントロール可能な時代

私はコントロールできないことが嫌いで、大抵のことは努力すれば変えられると思っているのだが出自や血縁関係だけは動かせない。例えば人間の脳は一般に3~5%しか使われていないので、サラブレッドでなくても人一倍鍛錬すれば競走馬になれるが農家の生まれでは貴族の血を引くことはできない。

私の育った家庭は高度成長期の終わりに東京のベッドタウンに家を建てたサラリーマンの家庭というある時代の典型的なパターンを踏んでいて、この事実はもちろん変えることができないし、どれだけ過去に遡っても自力では変えられなかったことだ。誤解のないように、変えたい変えたくないという話ではなく、どう努力してもコントロールできなかったものがあるということに過ぎない。

より広くはこの国この時代に生まれたことも変えようがないもののひとつであり、我々が高度情報化社会の時代を迎えつつあり経済的に豊かな日本という国に生まれたこの変更不可能な事実は逆説的に私達の境遇における変更可能な範囲を広げてくれていて、それはある意味で感謝すべき奇跡であり、同時にコントロールできなかったものである以上甘んじて黙認できないものでもある。

移動型シェアハウスに住んで一ヶ月が経つ

今は都心近くのシェアハウスに住んでいる。
理由は友人から借りていた家がもうじき売られるのでそろそろ出る必要があること、オフィスへのアクセスが近い場所に移動したかったこと、現在の仕事が終わる2月半ばから東南アジアに数ヶ月間行く予定なのでワンルームを確保するには半端であること、そしてこれからより一般化するのは確実であろうシェアリビングという形態を身をもって体験したかったことだ。現状では従来のタイプの不動産を複数人で暮らせるように家具等の設備を配置して貸し出すのがシェアハウス業の常道だが、これから先、家族でない人々のシェアリビングを前提とした意匠設計が広く普及するだろう。

もう10年近く一人暮らしをしていたので、ああそういえば実家に住んでいたときも形は違えどこうして共同生活をしていたんだなとそれが特別なことでないことを思い出した。実際住み始めても大きな違和感はなく、数日で慣れた。

私が利用しているのは都心で最大手のシェアハウス事業者が運営する物件のひとつで、山手線沿線を中心に全部で十以上の物件があるらしい。聞いた話では来年更に倍増するとのことだから成長産業であることが伺える。一年以上の利用ブランクがなければ、いつでも無料で物件や部屋を移動できるのが特徴で、仕事をする場所が仕事によって変動するようなワーカーには適している。業者所有の物件のうち3件を内覧し、その中で最も綺麗な物件を選んだ。オープンしたばかりで、私は入居者の募集が開始されて以来6人目の入居者となった。とにかく仕事に支障が出るような面倒なことは避けたかったので、ゼロから人間関係やルールを構築できる方が何かとコントロールしやすいという算段もあった。個室を含めてフルで入居して13人が収容できる。

快適なシェアハウス生活を送るために、今回の経験から感じたシェアハウス選びのポイントをひとつ挙げてみよう。それは生活のルールが運営会社によってどれだけ適切な細やかさで決められ、それが実際に遵守されているかである。運営会社によってというところが肝だ。なぜなら共同生活では自分の常識と他人の常識が異なる場面に出くわす度に妥協点を探らなければならず、その時運営会社によって予め明文化されたルールがあれば住人間での摩擦は起こりにくいし、たとえ納得のいかないルールであっても何かしらの感情の矛先は管理者に向くので、住人同士でのわだかまりもそれだけ減る。見える者への不満より遥かにストレスレスだ。多くの人にとって第一に守るべきは清潔さや安眠などの平穏が確保されることだろうから、特にそういった類のルールが適切に整備されているかを事前に確認しておくのがいい。この点について、幸い私が利用しているシェアハウスは課題はあるものの合格点と言って良さそうだ。

垂れ流し続けている感覚

事業主とサラリーマンの決定的な違いはコスト感覚だろう。
フリーランスや経営者などの事業主は利益を計上するまで収入がないので労働密度を上げたり一切の無駄な時間を減らすことにインセンティブが働くのに対し、解雇されない限り毎月一定以上の収入が入ってくるサラリーマンには時間あたりの労働量を下げた方が費用対効果が高いので、同じ給与額であればなるべく働かない方が得というインセンティブが生まれる。
少なくとも我々のようにただ生きて時間を消費しているだけで金銭的コストという血を垂れ流し続けているといった感覚を皮膚感覚的に感じている人は給与所得者ではかなり希少ではないだろうか。生きている以上生活コストは刻一刻と発生し続け、その負の生産量と労働による正の生産量を逐一微分的に秤にかける思考回路が出来上がる。そしてあらゆるものごとをコストとリターンの枠組みで捉えるようになる。その時、言わば生産財は時間のみといった我々のような職業では特にコストの把握と時間感覚の相関が密になってくる。
血量が尽きることは何らかの助けがない限り文字通り死を意味するので、サバイバルである。私が利用しているオフィス施設の中で日毎に行われる様々な企業イベントでいつも受付に過剰な数のスタッフがたむろっているのを見るにつけ、正直手から銀砂が滑り落ちていくのを見るかのような惜しさやもどかしさを感じてしまうのだがこういう感覚を伝えるのはたぶん難しい。