いきなり話は変わって本の読み方には2通りある。
一つは手にとった本を作者の意図に従いはじめから行を追うように読むやり方。もう一つは自分の予めもっていたテーマや問いに従ってその答えを探すように読むやり方。前者は受動的な読書と呼ばれ、後者は能動的な読書と呼ばれる。
こんなことは古今東西の数多の書物に書かれているので、このブログの読者なら今さら何をか言わんやというところだろう。結論を言えば目標達成のための戦略的な仕事選びに欠かせないのは後者のような発想だ。達成によって今必要なものを埋められるような仕事をその時々で選んでいくのである。
信用を前提とした仕事には社会的責任が付きまとう。自分を鍛えるためにこれを利用しない手はない。絶対に達成しなければならないことと自分が求めていることが一致した時モチベーションは一段と高まり、また達成することで得られるスキルと成功体験は新しい高みに登るための土壌になる。
Money is Time 2
人類は歴史的に、食うために働いていた時代に始まり社会システムの維持とモノを買うために働く時代(大量消費と記号消費の時代)を経ている。これからは余計な消費を減らしつつ、働かないために働く時代だ。ここで言う働くとはマネー、つまり時間を稼ぐことを目的とした行為である。金を稼ぐことが自己目的化すると働くことはゲームになるが、いずれそうした活動はゲーム以外の何ものでもなくなる。
人はまだ金銭的価値のついていないこと、例えば美しいものを生み出したり、愛する子供に愛情を注ぐことにこそ限られた時間を消費すべきであると気づき、働くことが善であるという価値観は薄れていく。このブログにしても本エントリーを書くことによって1円の利益も得ていない。そういう意味で、何世紀も前に中心都市の舞台として栄えたヨーロッパ諸国はたとえ金融危機に陥り破綻寸前になろうとも価値観の形成という点において成熟度が高いと言えるのもしれない。それが私が欧州に惹かれる理由だ。
システムによる解決は暮らしにとってなくてはならないエネルギーと食糧生産のさらなる効率化や、BIのような社会システムの整備を待たなければならない。今はある分野での卓越した専門性や分身となって働いてくれる何か(人、ロボット、コンピュータープログラム、動植物など)、あるいはスペインの街中で演奏する人達のもつ芸のような無形の資産を築くことが最良の策となる。
Money is Time 1
時間と金は等価と言ってもいい。
外食をしたり交通機関を使ったり娯楽を消費したりといった消費活動はある意味時間を金で買っていることと同じだ。
外食は食物を育て収穫し調理する作業を外注していると言えるし、電車を使うのは別の街まで歩く移動時間の短縮分を金銭と交換していると言える。
特産品も最たる例だ。コロンブスが塩を王家に調達するためにインドを目指したように、流通が今ほど発達していなかった時代ではその土地に行かなくてはわざわざ行かなければ手に入らなかったし、あるいは手に入れることができる特権的な階級にまで上る必要があった。今は金で買うことができる。
金銭価値が高い高度な体験や物品ほどそれを自力で生み出すには時間がかかり、逆に言えばそういったサービスを金さえ払えば体験できる現代は一人あたりに与えられた時間が増加したとも言える。
こういうことを書き出すと延々と続けてしまいそうなのでまた続きはそのうち書くとして、高度情報化時代を経て労働の効率化に成功した人類は、与えられた有限の時間を増やす最後から二番目の方法として、今後いかに働く時間=時間を増やすための時間を減らしつつ消費活動のレベルを維持するかということに熱心になるだろう。
最後の方法とは生命活動の時間そのもの、つまり寿命を科学的な手法により増やすことである。
情報漏洩を防止するシステムが生まれたとき本格的な移動の時代が始まる
開発手法の効率化によるプロジェクトの製造サイクルの短期化と、有力なクリエイターの移動の活発化が相互依存的に高度化すると、地理的に分散してネットワークで版合わせをし製品を開発する傾向は今後ますます強くなり、情報漏洩防止への簡易的な解決への要求が高まる。
現在ではコンプライアンスの固い組織程、組織に情報と情報を扱う者を閉じ込めることで達成されているが、その方法に頼る企業は有力なクリエイターを確保できず優位性を失う。資本を投入し製造し市場に投じるまでの数週間から数ヶ月間の間だけクリエイターに与えた情報をコントロールすることが可能となるソフトウェアサービスが近い将来爆発的に普及するだろう。
そしてこれをきっかけとして分散型の製品開発は急速に発達し、移動インフラの充実化は加速され、移動型社会の夜明けが訪れる。
規制は必ずしも悪ではない
ネット上ではリバタリアニズム*が流行る。
インターネットメディアで影響力を持つのは卓越した個人であり、いかなる強制力も共同体としての利益も必要がない彼らから規制撤廃論が唱えられるのはある意味当然だからだ。
社会福祉は些細なものに過ぎず、たとえ警察がなくても民間のサービスで安全を買える経済力を持ち、各種団体のように組織的に政治力を行使できる立場とは無縁であり、なにより組織の歴史的な経緯による権益に頼らず個人の実力により力を手にしたという自負もある。だから彼らの利益を考えるといかなる規制を擁護する合理性もない。
彼らがそういった理由で規制撤廃を訴えていると言っているのではない。単にそうでないことのメリットがないし、ネットメディアの特性や歴史を考えれば動機として自然であるというだけだ。
ここまで当たり前と言えば当たり前だが、実は私達は規制によって守られている。最たる例は法律で、人を殺してはいけないというコンセンサスは罰せられるという強制力によって保たれている。仮に他者からの最低限の物理的な安全すら経済活動のみによって確保しなければならない場合、経済力も差程なく力の弱い老人は強盗され、若い女へのレイプは激増するだろう。
警察というシステムは法的強制との両輪で成り立っている。
現代の力は情報だから力の無い女子供や老人を暴力から守るのと情報弱者をマネーゲームによる搾取から守るのは同じだ。情報がない者から搾取し、破滅へと追い込むことを禁忌とするコンセンサスが、少なくとも今の経済システムが持続する限りは必要だろう。
規制=悪という風潮が蔓延するなら危険だ。
誤解されると困るので、私は規制撤廃論に反対しているわけでもないし、悪と呼べる規制は数え挙げればキリがないほどある。
だからといって人はなぜ殺してはいけないのかという命題に対し自分も殺されるリスクを生むからという問いは合理的でも、リスクがゼロなら構わないという理屈にはならない。
*リバタリアニズム
個人の自由と経済の自由を尊重し、政府の介入や社会的強制を否定する立場。リバタリアンとしてはミルトン・フリードマンやフリードリヒ・ハイエクが名高い。
破滅型ゲームからの防衛論
アメリカの金持ち上位0.01%の所得は2005年の時点で平均的労働者の250倍であり、これは30年前の50倍という数字の5倍である。一方でアメリカ人労働者の賃金は安価な労働力の普及とともに1973年から下がる一方で、カリフォルニアの子供の五人に一人は貧困生活を余儀なくされている。
この数字からアメリカ内部で格差が拡がっていると言うのは容易である。では格差はこれからも拡大し続けるのだろうか、それとも収束し均質化に向かうのだろうか。
この分水嶺はあるマネーサーキットについて行き過ぎた金融システムを解除できるかどうかにあると思われる。現在の金融システムの問題点への考察は後ほど書くことにして、サーキットを支配しているのは銀行、保険、証券らの大企業でありこれらの金貸し業についてクリントン政権時代に緩められたような権限を再び制限しなければ、住宅ローン危機や日本の土地バブルのように、いい頃合いで抜けた者にババを引き受けたその他大勢の敗者の富が移転するような醜いゲームが繰り返されるだろう。ジョージ・ソロスもその著書の中で金融規制強化を訴えている。
一見時代に逆行するかのような反自由化の必要性は、知識がないために必然的にゲームの敗者となってしまう弱者が常に一定数いるという理由で人道的な立場からすれば免れない。自己防衛のための努力が足りていなかったのだから仕方がないと言ってしまえばそれまでではあるが、しかし夢を見せられた者が結果的に搾取され身包みを剥がされるような状況というのは醜いし、防衛できない多くの人の中に仮に知人が含まれるようなことがあれば嫌だ。
市場が完全でない理由はいくつもあるが最も根源的にはそもそも市場価値という尺度が完全でない点にあるように思う。人間が金銭的価値をつけることができているのは世の中の事象の一部に過ぎない。にもかかわらずGDPと幸福度がほぼ比例する世界はその脱却としての未来に人類全体が最低限の豊かさを手に入れることを見るべきだ。
良い旅とは現代アートを観るような旅
日本人はアートの見方を知らないと言われる。
それは小さい頃から美術館を訪れる機会を作るような教育の習慣がないことが一因であるし、何より見方を教えられる大人がほとんどいない。
人並み以上の教養がある大人で例えばモネが好きとか印象派が好きとかいう人はそれなりにいてもなぜ好きなのかという問いに客観的な説得力をもって子供に伝えられる人はそう多くないだろう。
一言で言えばアートを鑑賞する力はリファレンスの量と質で決まる。
リファレンスとは歴史であり、その作品あるいは作家がその時代のそのシーンの中でなぜ意味を持つことが出来たのかということだと思う。
マティスがマティスたり得たのは、ひとつには形態が持つ量感の、単純な線で構成したスケッチによる徹底した追求から抽象絵画の道を切り開き、またそれゆえにピカソらのキューブによる幾何学的で単純な抽象化とは線の世界において一見似ていても全くの異質さを放っている点にある。
現代アートになる程この傾向は強い。なぜなら歴史の中でその作品が存在するまでに存在していたn個からそれが存在することによってnがn+1になったときその作品は歴史の内部での存在意義を持ち、nは歴史とともに増えるからだ。
映画や音楽やその他のあらゆる芸術においても、もっといえばアートと呼ばれることの無いあらゆるものについても同じだろう。
Aを知っていることが教養ではない。BやCやDによってAを知っていることが教養である。
現代アートの置かれた美術館を訪れたとき、作品を他の作品群や時代背景などの何重ものレイヤーが可能な限りのバリエーションで重ねられたレンズを通して観るように、ある土地を訪れた時、目の前に見える風景を超えた多くのレイヤー、つまりその土地の歴史や産業的位置づけなどといったレイヤーを通して見ることで楽しさは何倍にも増す。
また多くの場合完成とともに固定化する芸術作品と違って、幸い土地は移り変わりまた私たちも自分の歴史を持っている。
それゆえある土地に行くのに本当に楽しいのは時間が経った後二度目に訪れる時だ。
だから出来るだけ若いうちに世界を廻り多くの場所を訪れておくのがいい。
国境は多い方がいい
中学の頃友達が水槽でグッピーを飼っていた。
グッピーは赤い餌を食べると体が赤く変色し、青い餌を食べると青いグッピーになった。体の色をコントロールされた赤と青のグッピーが入り混じる水槽は、人為的に自然が操作された神秘的な世界として映った。
もし仮に世の中のグッピーが赤い餌だけを食べていたらどうだろう?全ての水槽のグッピーが赤であるとき、彼らの水槽内という市場での価値は一律に下がるはずだ。
あるグッピーは他の色のグッピーによって絶対的な美しさを増している。
少なくともインターネット内では(いずれクラウドが巨大化するにつれ国家のような役割を演ずるかもしれないが)、国境は限りなく曖昧になり、それが均質化を産んでいる。かつて衛星からのネットワークを使って世界に放映しアメリカンカルチャーを急速に浸透させたMTVのように。
つまり国境はないことが善という考え方が一般的だがそうは思わない。むしろ国境のようなものがもっと密にあったほうがいい。国境の優れた機能は制度をローカルごとに設定し異なる文化圏が作られる点だ。
それは赤い餌を食べるグッピーと青い餌を食べるグッピーをつくる行為に他ならない。
産業が効率化するにつれ必要な労働は減り、グローバル化で文化は均質化する。だから世界的な雇用悪化と富の集中は当然の帰結だ。効率化とは異次元の文化的価値こそ俵の代替として重要で、差異は文化を生むから論理的に、差異を生む国境は皆が豊かになるために重要だ 。
『自分の頭で考える』ことの意味は変わった
自分の頭で考える、というのはこれまでは主に、客観的に見ても本当に合理的な答えを知るために与えられた情報を鵜呑みにしないことだった。
高度情報化社会では他の誰でもなく己が何を求めているかに真摯になることがむしろ自分の頭で考えるということになってくる。
すでにある程度合理的な答えが決まっている問題、例えば言われたことをそのまま受け入れて実行すると経済的に不利益を被るような場合、多くは正しい答えを導くための情報を持っているかで決まる。あらゆるリファレンス的なものも含めて基本的で重要な情報は簡単に手に入るからハードルは下がってきている。
社会が複雑になってくると答えを主観的に評価するしかない場面が多くなる。客観的にみて合理的な答えを出すのに必要なパラメータが多すぎたり、多すぎるがために主観に大きく依る、そういう構造の問題が増えるから。社会の構造と価値観が複雑多様になるにつれて答えを出すために自分で定義すべき要素は多くなる。
自分が何を求めているのかを突き詰めて意識下に置いていなければ、ある問題を考えるのに肝心な要素を知らない間に他人に委ねてしまう。
このことに成功した人がこれからの時代を豊かに生きていける。
クリエイターの心得
予算とスケジュールは絶対法。越えるものを作ろうとしてはならない。
テーマが決まると作りたいもののイメージが沸々と湧いてくる。インスピレーションが刺激され、クリエイター魂が燃える瞬間のひとつである。
しかし、そこであなたがシャワーを浴びている間にどんなにクールなアイデアを思いついたとしても、1.予算、2.スケジュール(1と2は往々に不可分だったりするのだが)、つまりこれらをリソースと呼ぶことにするならば、リソースを越えるアイデアには絶対に手を出してはいけない。
それがフレッシュな水飛沫の中でアドレナリンを迸らせたどんなにクールに思えるアイデアでもだ。なぜならばリソースを越えた辺りから、当初のモチベーションを維持するのが困難になり始める。
クールなアイデアを実現させる過程では、うんざりするほどの地道な作業が付きものだ。その苦労を精神的にも物質的にも完成まで支えられる環境を確保し続けられるだけのリソースの余裕が必要であり、そのひとつである報酬があなたの労に見合わないと思えてしまった途端にモチベーションが瓦解し始めるだろう。
仮にあなたが十分に身銭を切れるほどの潤沢なリソースを持っていたり、あるいはVCから50万ドルの出資を受け、世界を変えるプロダクトを開発しようとしているならそれでもいい。周囲に迷惑を懸けない範囲で思う存分傑作に汗かくべきだ。
そうでないならば、そのクールなアイデアは次の機会のために温め、時がきたら実現させればいい。その頃にはとるに足らないものに思えているかもしれないし、より洗練されたものに深化しているかもしれない。
具体的にはリソースの範囲内で量より質の発想から小さくとも高いクオリティで一転突破するのが得策だ。
今、遠い結びつきこそが重要だ
東日本大震災が起こったとき東京にいた。
当初原発の影響が懸念されていたため、知人のつてで九州に避難場所を確保してくれるという話が出たが、祖母が福島県に住んでいることから可能な限りあらゆる情報ソースを漁り、原子力発電所の構造的欠陥がどこにありそれによる放射能や放射性物質による健康被害のリスクがどれほどのものであるのか科学的に考察した結果、移動の必要は無いと判断したので結局断った。
私たちはどこにいてもその土地に潜むリスクを抱えている。
世界規模でマネークラッシュが次々に起きている今では自然災害よりも金融危機のようなシステマティックな災害の方が衝突の可能性は高いかもしれない。
ちなみに世界的な金融危機の今後の動向に対する考察はそのうち書こうと思う。
そうした突如起こるかもしれない種々のリスクを回避するには何より即座に移動を可能にする機動力、つまり土地依存度を下げることが必須なのは言うまでもないが、移動後の生活環境を考えたときに移動先に知人がいるのといないのでは状況は全く異なる。
幸い私はあるまとまった期間をヨーロッパ各地で過ごしていたので、そこで得た友人に頼み込めば住む場所と簡単な仕事の紹介くらいは確保できるだろう。
もちろん逆の立場となった場合には手厚くサポートしたいと考えている。
そうした災害リスクのようなネガティブな面だけでなく、世界にはその時代に応じてホットな都市、いわゆる中心都市と呼ばれるものがあり、例えば今ならアメリカ西海岸のように最先端の産業が栄える都市が形成するネットワークに参加するためにも移動可能な範囲を増やしておくことは重要だ。
人脈、仕事、言語を含む適応のための文化的な基礎の3つを有することができた土地を「拠点」と呼んでいる。
個人的に今最もリスクの少ない土地は南半球の特に東南アジア諸国とオセアニアだと考えている。
来年の初頭に東南アジアに拠点をつくり、同時に中心都市であるアメリカ西海岸に移動するための言語的支柱をつくるのが今後のプランである。
中心都市は金融業が興った19世紀以降、ジェノバ→アムステルダム→ロンドン→ボストン→ニューヨーク→サンフランシスコと移行してきた。
これは移民の流れに準じており、大局的にはヨーロッパから北アメリカ大陸への移行とみることができる。
とはいえ生きてきた四半世紀をアメリカ全盛時代に過ごしてきた者としてはこの変化を実感を伴ってイメージすることは難しいのだが、今後四半世紀のうちにアメリカ帝国終焉とアジアへの中心都市の移動を目の当たりにするのだろう。
そのとき中心都市となる場所はどこだろう。
自己実現の近道は環境を変えること
一番強いものが生き残るわけではない。一番賢いものが生き残るわけでもない。変化に適応できるものが生き残るのだ。 – Charles Darwin
全ての生物はその進化の成り立ちから考えて環境依存度が高く、人間もその限りでない。環境に適応することが生き残るための絶対条件だからである。
逆に言えば環境ごとに生き残る生物の特徴は異なってくる。
つまり環境がそこにいる者の特徴を形づくる。
だから適応すべき環境は絶対的に重要である。
もし自分のありたい姿を実現したければ、どんなに優れた自己啓発書を読み自己を変化させようと試みるよりも、その理想とする自分の姿こそ環境の適者となる、そういった環境に移行することの方が合理的だ。
ただしどんな環境にも適応すべき部分を持っている可能性があることを忘れてはならない。
同時に環境は変化するものだから、適応すべきでないと感じたときに変えられる機動力は常に確保しておかなければならない。