Money is Time 2

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人類は歴史的に、食うために働いていた時代に始まり社会システムの維持とモノを買うために働く時代(大量消費と記号消費の時代)を経ている。これからは余計な消費を減らしつつ、働かないために働く時代だ。ここで言う働くとはマネー、つまり時間を稼ぐことを目的とした行為である。金を稼ぐことが自己目的化すると働くことはゲームになるが、いずれそうした活動はゲーム以外の何ものでもなくなる。

人はまだ金銭的価値のついていないこと、例えば美しいものを生み出したり、愛する子供に愛情を注ぐことにこそ限られた時間を消費すべきであると気づき、働くことが善であるという価値観は薄れていく。このブログにしても本エントリーを書くことによって1円の利益も得ていない。そういう意味で、何世紀も前に中心都市の舞台として栄えたヨーロッパ諸国はたとえ金融危機に陥り破綻寸前になろうとも価値観の形成という点において成熟度が高いと言えるのもしれない。それが私が欧州に惹かれる理由だ。

 

システムによる解決は暮らしにとってなくてはならないエネルギーと食糧生産のさらなる効率化や、BIのような社会システムの整備を待たなければならない。今はある分野での卓越した専門性や分身となって働いてくれる何か(人、ロボット、コンピュータープログラム、動植物など)、あるいはスペインの街中で演奏する人達のもつ芸のような無形の資産を築くことが最良の策となる。

Money is Time 1

時間と金は等価と言ってもいい。
外食をしたり交通機関を使ったり娯楽を消費したりといった消費活動はある意味時間を金で買っていることと同じだ。

外食は食物を育て収穫し調理する作業を外注していると言えるし、電車を使うのは別の街まで歩く移動時間の短縮分を金銭と交換していると言える。

特産品も最たる例だ。コロンブスが塩を王家に調達するためにインドを目指したように、流通が今ほど発達していなかった時代ではその土地に行かなくてはわざわざ行かなければ手に入らなかったし、あるいは手に入れることができる特権的な階級にまで上る必要があった。今は金で買うことができる。
金銭価値が高い高度な体験や物品ほどそれを自力で生み出すには時間がかかり、逆に言えばそういったサービスを金さえ払えば体験できる現代は一人あたりに与えられた時間が増加したとも言える。

こういうことを書き出すと延々と続けてしまいそうなのでまた続きはそのうち書くとして、高度情報化時代を経て労働の効率化に成功した人類は、与えられた有限の時間を増やす最後から二番目の方法として、今後いかに働く時間=時間を増やすための時間を減らしつつ消費活動のレベルを維持するかということに熱心になるだろう。
最後の方法とは生命活動の時間そのもの、つまり寿命を科学的な手法により増やすことである。

規制は必ずしも悪ではない

ネット上ではリバタリアニズム*が流行る。
インターネットメディアで影響力を持つのは卓越した個人であり、いかなる強制力も共同体としての利益も必要がない彼らから規制撤廃論が唱えられるのはある意味当然だからだ。
社会福祉は些細なものに過ぎず、たとえ警察がなくても民間のサービスで安全を買える経済力を持ち、各種団体のように組織的に政治力を行使できる立場とは無縁であり、なにより組織の歴史的な経緯による権益に頼らず個人の実力により力を手にしたという自負もある。だから彼らの利益を考えるといかなる規制を擁護する合理性もない。
彼らがそういった理由で規制撤廃を訴えていると言っているのではない。単にそうでないことのメリットがないし、ネットメディアの特性や歴史を考えれば動機として自然であるというだけだ。

 

ここまで当たり前と言えば当たり前だが、実は私達は規制によって守られている。最たる例は法律で、人を殺してはいけないというコンセンサスは罰せられるという強制力によって保たれている。仮に他者からの最低限の物理的な安全すら経済活動のみによって確保しなければならない場合、経済力も差程なく力の弱い老人は強盗され、若い女へのレイプは激増するだろう。
警察というシステムは法的強制との両輪で成り立っている。

現代の力は情報だから力の無い女子供や老人を暴力から守るのと情報弱者をマネーゲームによる搾取から守るのは同じだ。情報がない者から搾取し、破滅へと追い込むことを禁忌とするコンセンサスが、少なくとも今の経済システムが持続する限りは必要だろう。

規制=悪という風潮が蔓延するなら危険だ。

誤解されると困るので、私は規制撤廃論に反対しているわけでもないし、悪と呼べる規制は数え挙げればキリがないほどある。

だからといって人はなぜ殺してはいけないのかという命題に対し自分も殺されるリスクを生むからという問いは合理的でも、リスクがゼロなら構わないという理屈にはならない。

 

 

*リバタリアニズム
個人の自由と経済の自由を尊重し、政府の介入や社会的強制を否定する立場。リバタリアンとしてはミルトン・フリードマンやフリードリヒ・ハイエクが名高い。

破滅型ゲームからの防衛論

アメリカの金持ち上位0.01%の所得は2005年の時点で平均的労働者の250倍であり、これは30年前の50倍という数字の5倍である。一方でアメリカ人労働者の賃金は安価な労働力の普及とともに1973年から下がる一方で、カリフォルニアの子供の五人に一人は貧困生活を余儀なくされている。

この数字からアメリカ内部で格差が拡がっていると言うのは容易である。では格差はこれからも拡大し続けるのだろうか、それとも収束し均質化に向かうのだろうか。

この分水嶺はあるマネーサーキットについて行き過ぎた金融システムを解除できるかどうかにあると思われる。現在の金融システムの問題点への考察は後ほど書くことにして、サーキットを支配しているのは銀行、保険、証券らの大企業でありこれらの金貸し業についてクリントン政権時代に緩められたような権限を再び制限しなければ、住宅ローン危機や日本の土地バブルのように、いい頃合いで抜けた者にババを引き受けたその他大勢の敗者の富が移転するような醜いゲームが繰り返されるだろう。ジョージ・ソロスもその著書の中で金融規制強化を訴えている。

 

一見時代に逆行するかのような反自由化の必要性は、知識がないために必然的にゲームの敗者となってしまう弱者が常に一定数いるという理由で人道的な立場からすれば免れない。自己防衛のための努力が足りていなかったのだから仕方がないと言ってしまえばそれまでではあるが、しかし夢を見せられた者が結果的に搾取され身包みを剥がされるような状況というのは醜いし、防衛できない多くの人の中に仮に知人が含まれるようなことがあれば嫌だ。
市場が完全でない理由はいくつもあるが最も根源的にはそもそも市場価値という尺度が完全でない点にあるように思う。人間が金銭的価値をつけることができているのは世の中の事象の一部に過ぎない。にもかかわらずGDPと幸福度がほぼ比例する世界はその脱却としての未来に人類全体が最低限の豊かさを手に入れることを見るべきだ。

 

 

国境は多い方がいい

中学の頃友達が水槽でグッピーを飼っていた。

グッピーは赤い餌を食べると体が赤く変色し、青い餌を食べると青いグッピーになった。体の色をコントロールされた赤と青のグッピーが入り混じる水槽は、人為的に自然が操作された神秘的な世界として映った。

 

もし仮に世の中のグッピーが赤い餌だけを食べていたらどうだろう?全ての水槽のグッピーが赤であるとき、彼らの水槽内という市場での価値は一律に下がるはずだ。

あるグッピーは他の色のグッピーによって絶対的な美しさを増している。

少なくともインターネット内では(いずれクラウドが巨大化するにつれ国家のような役割を演ずるかもしれないが)、国境は限りなく曖昧になり、それが均質化を産んでいる。かつて衛星からのネットワークを使って世界に放映しアメリカンカルチャーを急速に浸透させたMTVのように。

つまり国境はないことが善という考え方が一般的だがそうは思わない。むしろ国境のようなものがもっと密にあったほうがいい。国境の優れた機能は制度をローカルごとに設定し異なる文化圏が作られる点だ。

それは赤い餌を食べるグッピーと青い餌を食べるグッピーをつくる行為に他ならない。

 

産業が効率化するにつれ必要な労働は減り、グローバル化で文化は均質化する。だから世界的な雇用悪化と富の集中は当然の帰結だ。効率化とは異次元の文化的価値こそ俵の代替として重要で、差異は文化を生むから論理的に、差異を生む国境は皆が豊かになるために重要だ 。