柏原正樹氏のアーベル賞受賞で思うこと

2003年に年齢制限のあるフィールズ賞と別に設けられたアーベル賞は数学界のノーベル賞と呼ばれている.

今回受賞された柏原正樹教授の「D加群理論」とは,つまり微分方程式を求解可能な実態でなく無数の解をもつ線型写像の表現型のような,解空間をもつ抽象クラスとして議論するものと大雑把に言っておよそ間違いはないだろう.

この世界を観念論的に捉える人々にとっては,実にワクワクする発想であり,むしろなぜ今になって評価されているのかとすら思える.

氏は「数学は創造するものだ」ということをしばしば仰っているようである.

これにはまったく同感である.この稿で並べるのは畏れ多いが,僕がこれまで書いてきたいくつかの論は,そうした思想が根底にあった1

またこうした数学観は,10代で音楽という創造物に潜む数学的構造に憑かれ,自身の問題系を開始した経緯からも,ごく自然なことであった.

学校は答えを出すことを<数学>と教えており,これは数学のごく偏った側面を刷り込んでいるに過ぎない.

学校で<数学>と称していることの大半は<数学>ではなく<計算>である.

岡潔は感性を欠き技巧に専従する学徒を「青白い奴ら」と称していた.

数学とは言葉であり,絵筆である2

<計算>は機械にもできるが,<数学>は人間にしかできない.

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また氏は,

「応用なんてないよ」

と言っているが,これはポーズではないかと思っている.すなわち,

「応用なんてなくても,ただ美しいというだけでいいじゃないか.

数学とはそういうものだから」

ということを強調するためにあえて応用などないと言い切っているのではと推察する.

多分,氏はその有用性を含め把握しているに違いない.

役に立たなくても,それ自体美しく尊い,

そういうものがあっていいではないか

おそらく,そうした何かを作り出すことが,人間の存在意義なのだから.

当人の「応用などない」という言葉をよそに,この理論は,そのコンセプトからして,この世界を説明する上で多大な意味をもつことが瞬時に直感された.

変化する世界を捉える,より高い視座への理解は,

単に現象それ自体の理解や予測の域を越えて,

これまで未知だった世界のメカニズムを説明づける可能性をもつように思われるがどうか.

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ところで,

「今のところ役に立たなそうな知識」は

「必ず」いずれ役に立つ時代が来る,理屈を,ある日考えたことがある.

この理屈を “時計と歯車の理論” ととりあえず呼んでいる.

こういうことである.

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私たちは精巧な時計の中に生きている.

この時計は俗に<自然界>と呼ばれる.

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時計の内部にいる人間は自分の見える範囲の歯車の動きしか見えない

やがてその見える範囲が拡張される

新たに見えた歯車の挙動は確かに一貫性をもってはいるが

一見して別の歯車とどう関係するのかわからない

それでも時計の内部の歯車にはひとつも他と無関係なものはなく

依存関係をもっている

だから,一見して世界と切り離されていたように見えるその歯車は,

やがて別の何かと密接に関係している,

より大きな構造物の部分であることが分かる

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全体の構造の中での依存関係をもっている限り,

それは必ず総体としてのメカニズムに何らかの貢献をする歯車に他ならない

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だから

「その理論が自然界を正しく表現している限り,すべての理論は応用をもつ」(時計と歯車の理論)

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しかし改めて強調したい

応用なんて後付けでいい

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“数学は理性の音楽であり,音楽は感性の数学”である

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改めて,受賞おめでとうございます

  1. このように書くと意識的にそうしているように聞こえるかもしれない.実際には問題を解こうとすると道具を自分で作る必要が出てくるため結果的にそうなっている. ↩︎
  2. 昔読んだPaul Halmosのテキストにも,”数学とは絵筆である”と書かれていた記憶がある.がどの本だったか忘れてしまった. ↩︎

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