
葛飾北斎「雪月花 吉野」(1833)
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今年も桜の季節になった.
樹木は大きく二分され,桜は広葉樹である.
広葉樹を見るたびに,その生き方に親近感を覚える.
針葉樹は,広葉樹とはまるで違ったパラダイムで生きている.
針葉樹のもっぱらの関心は高さ競争であり,幹をなるべく高く伸ばすことで日光,すなわち植物界の<通貨>,を多く集めることに執心する.たとえ大量の,地球にとってほとんど無用なバイオマスを作り出したとしても.
その求めるところは単純であり,多くは容易に数値化できる,金銭,組織内の階級,偏差値,単純化されたランキング,を至上価値とするホモエコノミクスに似ている.
針葉樹には,広葉樹がなぜ日光に近づくことを犠牲にしてでも,あえて曲がりくねった幹の軌道を描くのか,理解できない.
また針葉樹には,広葉樹がなぜすぐに散って土に沈むと分かっている華麗な花を咲かせるのか,理解できない.
針葉樹にとってみれば,エバーグリーンというその名の通り,せっかく集めた<通貨>でこさえた綺麗な緑色の葉を,わざわざ身銭を切って腐葉土に還元することなど,無駄なことである.
この世界が,右と左に分かれる概念同士のバランスで成り立つとするならば,
人間社会も,針葉樹的な人々と,広葉樹的な人々1とのバランスで成り立っていて,
それらはどちらも依存し合う,なくてはならない存在なのだけど,
19世紀以降の時代が,過剰な,ヒトの技術程度の計ることのできる短絡的指標への偏った追求の時代であったのなら,そろそろ広葉樹的な精神が,もっと住みやすい世界になってもいいのではないだろうか.
桜の花が散り,山が緑の葉で覆い尽くされてしまう前に.
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- 前者は,マックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で描いたプロテスタントであり,後者はカトリックに対応する.尚,この書の冒頭では学問的嗜好性によってこれらの性格を分割しているところが興味深い. ↩︎