世界一周をしてはいけない
自分にとって無害な他人の趣味や行動を否定するのはナンセンスだが、何かを終えた影響力のある人達はしばしば世界一周に向かうらしく、こうした傾向がこの国である種のブランド性を帯びつつあるなら奇妙である。
若者は世界に出ろという助言がメディアを通して毎日のように吐きだされている。真面目な若者はそれを聞いて真に受け、危機感を覚えるかもしれない。危機感というテーマはこの国とって重要な問題なのでそれは悪くない。ただ、世界に出る理由がないのに出ようとする意味は全くない。
例えば7日間の海外旅行ツアーでどこかの国に行くことには、景色と食べ物が変わる以上の意味はない。念のため景色と食べ物が変わることに意味がないと言っているのではなく、それ以上でも以下でもないという意味だ。そして一般的に行われる世界一周とは、このツアーのようなものが1年程度の間連続したものと殆ど相違ないと私は思っている。
まず第一に、各々が短い。どれだけ密度を濃くしても人間の物理的な新陳代謝の速度には逆らえないので、細胞がその土地に溶け込むのに絶対的な時間の経過を待たなければならない。経験上、外部環境が血肉化するのには通常、最低でも数ヶ月の時間を要するので、数日や数週間の滞在でその土地外部からの視点が一定以上抜けることはない。外部としてその土地と接している限りは新たな客観性を得ることがないから、己を見る目も自国を見る目も大きく変わらないし養われない。そしてこれらを獲得することこそ必要に迫られない状況で世界に出る場合の殆ど唯一の意味であると思っている。
仮に丁度一年の期間をかけて世界の20都市を回ろうとしたとき、48週間÷20=2.4週間しかひとつの都市にいることができない。そして2.4週間は内部者として適応するには短過ぎるし、具体的な理由がなく居るには長すぎる。例えばキューバのクラーベのリズムを体得するとか、ニュージーランドの大規模ファームの収穫期に関与するとか、そういう理由である。そういう類の目的を体験レベルでなく遂行するには通常まとまった期間が要る。
ピースボートという企画がある。これは世界一周が目的というより、移動する客船という特殊な環境下の長期的に固定された人間関係の一部になるというのが主旨であって、客船が世界一周をするという装置はそれがなくては成立しないものだからこれは特殊な例と言えるのかもしれない。
要するに世界一周をするなら、それよりも最低数ヶ月間ある土地でまるでそこの住民になったかのように生活してみる方がいい。幸い日本は国際信用度の高い国なので数カ月程度なら大抵の国で難なく滞在許可が下りる。最も基本的なことはある国に行くという単に手段に過ぎないものを目的と混同しないことであり、明確な目的なしに海外に出ても退屈なだけだ。具体的な目的があり、それが達成に近づく頃には自ずとその土地の内部へと接近しはじめる。私は幸運にも世界各国の主要な都市に友人がいる。彼らの殆どはその時その時で人生の目的の一部分を共有してきた仲間だからその存在を忘れることはないし、目的が明確なのでどこにいても助け合うコンセンサスが自然と生まれている。今この時代で必要なのはそういう仲間だといつも思っている。