規制は必ずしも悪ではない
ネット上ではリバタリアニズム*が流行る。
インターネットメディアで影響力を持つのは卓越した個人であり、いかなる強制力も共同体としての利益も必要がない彼らから規制撤廃論が唱えられるのはある意味当然だからだ。
社会福祉は些細なものに過ぎず、たとえ警察がなくても民間のサービスで安全を買える経済力を持ち、各種団体のように組織的に政治力を行使できる立場とは無縁であり、なにより組織の歴史的な経緯による権益に頼らず個人の実力により力を手にしたという自負もある。だから彼らの利益を考えるといかなる規制を擁護する合理性もない。
彼らがそういった理由で規制撤廃を訴えていると言っているのではない。単にそうでないことのメリットがないし、ネットメディアの特性や歴史を考えれば動機として自然であるというだけだ。
ここまで当たり前と言えば当たり前だが、実は私達は規制によって守られている。最たる例は法律で、人を殺してはいけないというコンセンサスは罰せられるという強制力によって保たれている。仮に他者からの最低限の物理的な安全すら経済活動のみによって確保しなければならない場合、経済力も差程なく力の弱い老人は強盗され、若い女へのレイプは激増するだろう。
警察というシステムは法的強制との両輪で成り立っている。
現代の力は情報だから力の無い女子供や老人を暴力から守るのと情報弱者をマネーゲームによる搾取から守るのは同じだ。情報がない者から搾取し、破滅へと追い込むことを禁忌とするコンセンサスが、少なくとも今の経済システムが持続する限りは必要だろう。
規制=悪という風潮が蔓延するなら危険だ。
誤解されると困るので、私は規制撤廃論に反対しているわけでもないし、悪と呼べる規制は数え挙げればキリがないほどある。
だからといって人はなぜ殺してはいけないのかという命題に対し自分も殺されるリスクを生むからという問いは合理的でも、リスクがゼロなら構わないという理屈にはならない。
*リバタリアニズム
個人の自由と経済の自由を尊重し、政府の介入や社会的強制を否定する立場。リバタリアンとしてはミルトン・フリードマンやフリードリヒ・ハイエクが名高い。