カテゴリー別アーカイブ: 文化

教養という名の言語

最近アメリカ社会でのエリートと呼ぶにふさわしい人物と話をする機会があったので、文化的な話を色々ともちかけてみると案の定盛り上がった。教養がある人というのは、大抵何か共通した印象をもつ。それを言葉で説明するのは難しい。

教養とは何だろう。英語ではcultureなどと訳される。それは文化とイコールなのだろうか。教養は持つものと持たないものをつくる。社交界やアカデミーにおいては教養は共通言語として働き、持たないものはそのコミュニティの中での尊敬を得ることが難しくなる。どれだけ裕福か、例えば年収がどれだけあるかといった指標は客観性をもつので比較しやすいのに対して、教養の程度は数値化できない。社会的には力がありながらも教養が無いと、時として品がなくまた精神的な成熟さを欠くように見える。

教養が一部の人々の共通言語として機能するのは、それが知的好奇心を示すひとつの指標になりえるからだろう。知的な人々にとって幸福をもたらすのはその知的な好奇心や感性を刺激するものであるはずで、知的好奇心がなければ共感できない対象への理解を表明することによって、互いが知的刺激をもたらす間柄であるということを暗黙のうちに確認し合う。歴史のロジックを読み解くのもおもしろいが、世界の古典的名作はしばしば単純な言葉では表現できない微細な情緒を含む。そうした豊かさを感じられる心こそ人々は教養を通じて確かめあうのかもしれない。誰だってドラマチックな瞬間が好きだし、それを台無しにして興ざめさせられたくない。私の知る限り教養のある人々は得てしてロマンチストだ。

だから教養は俗に思われているような高飛車な差別主義ではない。特別な飲み物をもってして研ぎすまされた味覚を確認しあうように、ある種の知性や感性に間する純度の高いメディアによって瞬時に人々を結びつける高度に抽象化されたコミュニケーションである。

ウディ・アレンの『SMALL TIME CROOKS』(おいしい生活)という映画がある。偶然億万長者になってしまった無知な夫婦が方や社交界で通じる人物になるべく家庭教師のもとで学び、方や元の俗的な暮らしを取り戻すべく二人は離別するという話だ。ババ抜きやインディアンポーカーにふけってグルタミン酸でどろどろの中華料理とピザを食べるレイは滑稽だが、「教養のある人」となるべく退屈なデカダン演劇に浸ったり辞書で覚えたAのつく難しい言葉を並べ立てるフレンチは更に滑稽だ。だって教養とはおそらく衣服のように身につけるものではなくて、身そのものなのだから。

日本のメディアにはセレブリティという概念がない

今月はロサンゼルスにあるスタートアップハウスに籠ってプログラムを書いている。オンラインスポーツネットワークのスタートアップを経営するジョーダンが、親戚が所有する別荘を最大十名程度が寝泊まりしながら作業ができるように開放しているもので、オフィスはプールやバスケットボールのコートがある庭の一角を占めるガレージを改造した部屋から1分足らずで行き来出来る場所にある。(それにしてもアメリカのスタートアップ関係者は本当にガレージが好きである)ロサンゼルスといってもワーナーが近くにある、かなり外れたところにあるので車を使わない限りどこにも行くところがない。サンフランシスコでは毎晩のようにスタートアップ関連イベントかまたはサルサに通っていたので、生活はがらりと変わった。来月は再びサンフランシスコに戻る。

 

日本のメディアにはセレブリティという概念がないと思う。むしろ格差を隠蔽して総中流を演出するのが日本のメディアの目的の一つだという指摘もある。例えば国内でも有数の俳優が街中の庶民的な店で飯を食い、上手そうな演技をする。たとえ本当に上手くとも、そこに据えられた意味は、私と君達は一緒だというメッセージである。

2000年初頭のITバブルの頃、初めてメディアの中にセレブリティが登場する。つまり大衆とは異質な存在であることを公に主張する者が現れる。新種の存在が現れるときには必ず象徴というものが必要で、六本木ヒルズはその役割を果たした。

要するに日本におけるITバブルの終焉とは、メディアの中でのセレブリティという存在を改めて否定し、高度成長期の旧来の価値観に揺り戻す儀式となった。運動会で全員手をつないで一斉にゴールをするという話があったが(想像しただけで気分が悪くなりそうだ)、皆で一斉に幸せになるというコンセンサスに希望を持てないのは、それが既に嘘であることに皆気づいているからだろう。ヒルズがITバブルの頃の新種のセレブリティを象徴したように、世代交代による新陳代謝を繰り返しながらいつの時代にもメディアに現れ続け、スーパーマーケットのゴシップ紙に顔が並ぶハリウッドのセレブのような存在は、たとえ世界が狂い始めようともこの国には新しい成功がどこかにあるということの象徴としてあり続けている。

 

情報と感覚が結びつくとき文化が生まれる 1

条件反射を喚起する-パブロフの犬で紹介した通り、特定の刺激(情報)と感覚を同時に与えることでそれらが脳の回路の中で結びつき、その刺激(情報)を受けたときにその感覚も自動的に生じるという機能が人間には備わっており、これを条件反射といった。 kaikaikikiの村上隆氏は、現代芸術は幾層にも重ねられたコンテクストのレイヤーの多層性がその作品の計算された奥の深さを織り成し、従って鑑賞者には歴史のアーカイブをすでに持っていることが求められ、そうした基礎的な素養、つまり世界的には常識となっている芸術の見方を知らない日本人は現代芸術が解らないと主張した。 歴史を紐解けばいわゆる現代芸術に限らず、先端的な芸術を鑑賞または評価するのにいつの時代もこうした態度、即ち歴史のアーカイブというレンズを通して観るという態度が必要だったことは言わずもがなである。新しい芸術は誰もまだ「知らない」のだから。 実際に氏の作品には日本のオタクカルチャーという文脈だけでなく、伊藤若冲のような日本の伝統芸術のレイヤーや他の現代アートからのコンテクストの引用が多分に含まれている。 芸術とは生まれ持っての感性で観るものだとする横尾忠則氏のようなアーティストとは相反する態度である。 では現代芸術のようなローコンテクストな芸術作品はアーカイブというレンズを通して単に理性的に鑑賞する対象でしかないのだろうか。つまり我々はそうした作品に対して感覚的にでなく分析的に良し悪しを「感じる」だけなのだろうか。 (2に続く)

条件反射を喚起する -パブロフの犬

パブロフの犬という実験をご存知だろうか。パブロフは1904年に最初のノーベル医学生理学賞を受賞したロシアの生理学者だが、犬を対象に餌と唾液分泌の関係を調べているうちに餌を与える係の学生を見るだけで犬が唾液を分泌すようになることを偶然発見し、この生理現象を先天的な「無条件反射」に対して「条件反射」と名付けた。

つまり一定の条件が与えられるとその条件に結び付けられた回路をパルスが走り、特定の行動や感覚を引き起こすというものである。
これは人間にも起こることはしばしばレモンのイメージを与えて唾液線を刺激するような実験で説明される。

さて、条件反射を喚起するというテーマであるが、即ちこの生物がもつ条件反射のメカニズムを応用し自己や他者の情動に変化を与えることができれば自分を含めた人を動かすことができるということになる。
レモンをイメージさせて唾液を分泌させるように、ある任意のイメージを想起させてターゲットとする感覚を引き起こし、期待する行動へと誘導する。
ある共通の文化的背景の中で多くの人が後天的に身につける条件反射のパターンというものが確実に存在するので、そのパターンに嵌め込むということである。

その際に無視できないのは織り成される言葉がもつイメージ喚起力である。人は小説を読むと脳内に像を描き、時には登場人物が経験する感覚に自身の感情を半ば無意識的にシンクロさせてしまうということがある。またギリシャ神話で用いられた物語のパターン-少年が旅立ち自らを鍛え悪に立ち向かい真の父親に出会うというパターン-では条件反射的にアドレナリンを分泌させるので数々の物語に応用されている。(忠実に従ったものとしてSTARWARSが有名であるのだが)

ローコンテクストな芸術作品を見た時にアーカイブの量と質によって感じ方が異なるのもこのメカニズムによるものだろう。吸収してきたアーカイブによって後天的に作られる回路がそう感じさせるのである。一方で長調では明るく、短調では切ない感覚を覚えるのは無条件反射に属すると思えるがこの辺りはドーキンスの進化論で示された文化ミームとの関わりから後ほど詳しく書くことにしたい。

Ice under the bridge 4 – Singapore

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今シンガポールにいる。バターワースから寝台特急に乗り、クアラルンプールから高速バスで移動した。
シンガポールの目に付く小学生くらいの子供達の殆どがタブレット端末を携帯している。小学生の頃にPC98やMacintoshが教育機関に配備され、中学でWindows95が一般家庭に普及した我々の世代とは見ている世界が異なるのだろう。見ている世界が違うということはそのまま異質の文化を醸成する可能性を孕んでいる。

フィリピンやシンガポールに対し、マレーシアでは英語が通じにくい。正確には訛りがきついので非常に聞き取りにくい。ますます増加する英語を話す人々にとって今後英語でのコミニケーションに支障のある地域はそれだけで敬遠の対象になるのではないかと思った。少なくとも英語が通じやすい場所の方がストレスレスで居心地がいいのは間違いない。最低でも公共のサービスで英語の通じる国とそうでない国では人の移動の流動性に大きな差が生まれるのではないだろうか。交換が困難な通貨が流通している国で物流が滞るようにである。つまり相対的に異質なものとしての立ち位置を余儀なくされるということだ。英語の通じる程度が様々な国を行き来しているとそう感じてしまう。そして諸外国から見て日本という国はまるで異質なものと見られていたし、今もそうであるのだろう。人の流動性が停滞した都市は今後都市と呼べるのだろうか。

「日本人の9割に英語はいらない」は個人に対してのタームとして正しくても、日本や東京にとって正しいとは思えない。たとえそれらを構成するのが個人の集合体であってもだ。埋め合わせられる革新的な技術資源があるなら別なのだが今のところそういったものはまだ生まれていない。

Ice under the bridge 2 – Philippines

3/13のManila Bulletinによればフィリピン政府銀行は次年度の予算における外国からの借り入れを20%程減らし、より積極的な外貨獲得に向かう方針とのことである。これは同国の経済状況が上向きにあることを示している。

一方で知人から聞く限り確かに平均所得は徐々に上がっているが、一般の労働者の給与は以前低く、月2回あるpaydayで得た収入は日々の生活コストで殆どが消えてしまう。政府からの借り入れは容易なので足りなければ少額の融資に頼り、年間で分割して希釈された額を返していく。物価も徐々に上がっているため経済成長の実感は一般の生活者にはほとんどない。ここCebu Cityでは一部の良質な新しいサービスの大半は外国からの来訪者のためのものであり、価格も現地人には届きにくいものである。いずれもGaisanoやAyalaといった中国人ファミリーや韓国資本によって出資されている。こうしたサービスの従事者はサービス価値に反して一般的な現地労働者と変わらないため、結局のところ経営部門が収益の大半を持っていってしまうという構造になっている。つまり資本投下によって発展しつつある経済の利益享受者はあくまで外資系の参入者と政府のみで、市民には還元されていないのが現状だ。
グローバリゼーションとはいえ同一労働同一賃金とは単なる逸話に過ぎないのだろうか。

Cebuanoの知人の中に看護を専門とする二人の女性がいる。彼女達は病院が併設された医療系の同じ大学を卒業した同期であり、そしてそれぞれアメリカンでGEのCPAをしているフィアンセとコリアンの彼氏を持っている。一人は6月から米国の医療機関で働くことになっており、もう一人はトロントの医療機関で働く機会を手にしている。二人とも当然英語はネイティブのように話し、移転後の賃金はもちろん現地の労働者と同一である。こうしたことは水面下で進行しているかに見えるが、それは我々が日本人であるからに過ぎないのかもしれない。いずれにしてもすでに当たり前であるかまたは目を開けた頃にはすでにより当たり前になっているだろう。

つまり想定される将来とは、障壁は言語のみであり、障壁の少ない地域間において先進地域に後進地域からの一部のスペシャリストが集中する。技術、特に科学的なスキルとそして移動の活発化に伴いより比率が高まる国際結婚が橋渡しになっている。と書いていて疑問に思ってしまった。こんなことはとうの昔から起こっていたのではないか。ただ特異な言語を使う島国に住んでいたためにその実感を得る機会が希少だったにということにすぎないのだろう。

日本とは未だ精神的に鎖国を続けている国なのかもしれない。そしてその方針に迎合する個人以外は早く外に向うべきだろう。でないと本当にエキサイティングな世界から置いていかれてしまう。

3/18執筆

Ice under the bridge 1 – Korea

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セブのモバイルショップは殆どがSamsungかLGである。隅にさり気なくSony Ericsonがあるくらいだ。
ここでは数年前はSony Ericssonのデバイスが人気だった。NOKIAもそこそこ人気があった。今は完全にSamsungかLGである。価格が安いわりに機能性が高くデザインも優れていると認知されているからだ。NokiaやSamsungやLGのデバイスに対しSony EricssonのSDカードの規格だけが独自規格であり、こういうことが地味に消費者離れを招いている。一方で主要ホテルのフロントのコンピュータは殆どがSamsungであり、顧客の方を向く裏側のデザインまで配慮されているところを見るとユーザーのニーズを汲んだ戦略がシェアに結びついていると推測される。

車もHyundaiやKIAは安くデザイン性が優れていると思われているが、予算のあるPhilipinoは日本車を買う。ブランドイメージが高く品質への信頼があるからだ。家電でも同じで日本製のものは壊れにくいというイメージが定着している。しかし車は工業時代のものでエレクトロニクスでは圧倒的にKorea勢が制している。
郵便局など公共システムのIT化は遅れているが、近々ここにも韓国が介入する。資金力の脆弱な東南アジア諸国にこうしたインフラを提供するのは購買目的ではなく、資源を得る契約を交すためである。直接マネーを得ることだけがビジネスじゃないということだ。

要はこれらのことはどれも日本が工業化時代に影響力を持ち、情報とエレクトロニクスの時代で他国に席を渡しつつある歴史の変遷を映し出している。デザイン性云々はともかく少なくとも製造コストの削減とユーザー志向のプロダクト設計(これらはどこにリソースを集中させるかという点では通じる)に成功しなければ瞬く間にアジアの中での存在感を失うだろう。

かつてアメリカがハリウッドやMTVなどのエンターテイメントを浸透させ、マクドナルドなどを進出させることで覇権を獲得したのと同様の戦略を韓国は着々と進めている。
少なくとも大衆メディア向けエンターテイメントや先端産業に関わるクリエイターのレベルの高さと、それを波及させる戦略性は日本をとっくに凌駕しているので、鎖国しているだけでは根本的な解決にはならないことは言うまでもない。ハリウッドムービーが世界に波及し始めた頃、フランスは制限を加え国家的に自国コンテンツの割合を保とうとした。結果的にアメリカナイズに向かわず、グローバル経済が進むほど価値を持つ文化的優位性を後世まで維持し続けたとしたら正しかったといえるだろうが、情報が容易に海を渡る現在ではもはや囲い込むことに意味はない。外に向けて発信し、フィードバックを元にまた発信するという以外にないのである。
日本がアジアでトップだった頃はPhilipinoの日本語学習者は多かったが今は韓国語が抜き、中国語も増えている。ここにいるとますます韓国はアジアのリーダーとなるポテンシャルをもっていると感じる。

2/25執筆

国境は多い方がいい

中学の頃友達が水槽でグッピーを飼っていた。

グッピーは赤い餌を食べると体が赤く変色し、青い餌を食べると青いグッピーになった。体の色をコントロールされた赤と青のグッピーが入り混じる水槽は、人為的に自然が操作された神秘的な世界として映った。

 

もし仮に世の中のグッピーが赤い餌だけを食べていたらどうだろう?全ての水槽のグッピーが赤であるとき、彼らの水槽内という市場での価値は一律に下がるはずだ。

あるグッピーは他の色のグッピーによって絶対的な美しさを増している。

少なくともインターネット内では(いずれクラウドが巨大化するにつれ国家のような役割を演ずるかもしれないが)、国境は限りなく曖昧になり、それが均質化を産んでいる。かつて衛星からのネットワークを使って世界に放映しアメリカンカルチャーを急速に浸透させたMTVのように。

つまり国境はないことが善という考え方が一般的だがそうは思わない。むしろ国境のようなものがもっと密にあったほうがいい。国境の優れた機能は制度をローカルごとに設定し異なる文化圏が作られる点だ。

それは赤い餌を食べるグッピーと青い餌を食べるグッピーをつくる行為に他ならない。

 

産業が効率化するにつれ必要な労働は減り、グローバル化で文化は均質化する。だから世界的な雇用悪化と富の集中は当然の帰結だ。効率化とは異次元の文化的価値こそ俵の代替として重要で、差異は文化を生むから論理的に、差異を生む国境は皆が豊かになるために重要だ 。