カテゴリー別アーカイブ: 国際経済

自然と人工物

自然と人工物は相克してきた。少なくとも近代的な価値観では。

“例の問題”に再び向き合いはじめ、昨年初頭前稿を書いてからしばらく経った頃、ひとつの仮説を見出した。詳しいことはここには到底書くことができない。やや具体的には、進化のより進んでいることを示唆する信号、自然物とそうでないものを区別する信号、そしてそれらを支配する情報の保存と伝達のシステム、とりわけ、知能を持つ生命やその身体の発する振動あるいは草木と風の送受信する振動。かつて、生態学者の間には森は安定状態、あるいは復元性=resilienceを全体最適化するひとつのリダンダントなシステムであるという理論があった。現象にはメカニズムがあり、鳥や人間の歌もまた、系のルールに従っている…。昨年冬はマウイ島やメキシコ湾に、必要なデータを採取しに行くことを計画し航空券も手配したところで機会を逃し、そうこうしているうちにパンデミックで空路が途絶え、極東の奇妙な形をした島に隔離されてしまった。

2019年1月の前稿20年後の世界と取り残される人々 激動の時代の始まり、塗り替えられる勢力図』では中国をめぐる脅威、既に2014年には世界一だった購買力平価(PPP)ベースのGDPと、増大する経済力・技術力を背景に南シナをはじめ急速に軍事力を拡大していることを書いた。それから日本国内でこの問題を案じるような人物にはついぞ出会うことはなかった。

前稿から1年半の間、世界はさらにどこかの地に歩みを進めた。昨年4月に香港では逃亡犯条例改定案を契機にデモが過激化し、今年6月に香港国家安全維持法が可決、香港での反中国的言動の自由は事実上禁じられた。1月には習近平が一国二制度による対台湾政策を提示、蔡英文はこれを否定、その後蔡は台湾総統選に勝利したが、今も統一か独立宣言による武力侵攻かの危機に晒されている。昨年3月には米ソ冷戦後初の特別な危機委員会となる「Committee on the Present Danger: China (CPDC)(現在の危機委員会:中国)」が米国で設置、今年8月には中国ファーウェイ社製の通信機器にバックドアが仕込まれているとし、関連企業への禁輸措置を強化、米国からの半導体やソフトウェアの同社への供給を全面禁止した。世界はすでに冷戦の様相を呈している。

私たちの社会は、2050年までに高密度化する都市とロハス的理想郷としての陬遠地域の二局構造に収斂していくだろう。今とりわけ九州のある地域を足がかりに検証している。二元論的な、あるいは要素還元主義的な、文明というある種の生態系システムへの再考に、人間社会は直面する。そのことは人間と、ネットワークを流れる情報を含む、人間以外のあらゆる全てとの関わり方について再考の機をもたらした。今から17年前、高校三年の時、この近代合理主義への問題を懐柔できず彷徨する羽目になった。森や草木の遠望される形態は、高解像な4K映像を通じて、45億年の進化に裏打ちされた、圧倒的な正義として表示される。ピクセル密度の変化は「画素数」という一見してリニアな量的変化を超えて、何か質的な変化を私たちにもたらしているように思える。周波数知覚の認知が可聴域限界を閾値として、いわば「相転移」するかのように。そうして見える空撮映像は、文明という人工物の「玩具」に過ぎないことを露呈してしまった。

人間が自然と仮に区別されるというなら、自然に人間という存在が勝るのは、おそらく時間の意識においてだろう。シリコンバレーでは、1台も車を販売していないEVの企業や、殆ど誰も何をしているか不明なデータ分析企業が、この数週間の間に上場した。これはある意味での、すなわち現代の「芸術」の構造そのものだ。モダンアートとは、人間の作り出すポイエーシスを、オークションで落札するほど価値あるものと信じ込ませる行為に他ならない。皮肉なことに、知能をもった生き物は脳内に現在と別の瞬間をシミュレーションすることができるので、それが夢となる。
そして人は夢に資源を惜しまない。
 
それはあなたの子孫であるかもしれないし、何か普遍的な問題であるかもしれない。
 
 
 
 
 
 

20年後の世界と取り残される人々 激動の時代の始まり、塗り替えられる勢力図

カイロは西のピラミッドを望むギザ地区から、2011年にナダルの事実上独裁政権を降ろしたエジプト革命の中心地スクエアを通り、西の新都市ニューカイロまで100kmほど車で横断すると、5000年の人類の歴史をパノラマで見ているようで感慨深い。

東に進むほど道路脇の看板は英語で書かれ、まるで南国リゾート地のようなパースが並び、背後の砂漠がリゾート地に変わることを夢見させる。

2013年のクーデター以降、シシ政権下で生まれた都市だ。ここにユダヤが流入し、10年後にはドバイに並ぶ中東の中心都市となるだろう。

彼らの顧客は世界に開かれている。

この観光客のほとんど訪れることのないEl Shoroukエリアに住むのは多くが多国籍企業に勤める人々だ。

彼らは思考様式も顔つきも所作も、西側の人々とはまるで異なる。

こうした人々と話をしていると、その土地に依拠した仕事をする人々、世界企業コミュニティ、グローバルクリエイティブな個人(超ノマド)、の3つの階層に人々は分断されつつあるのが明白になる。国際社会では英語で母国語同等の速度で自分のアイデアを話せなければ重要な人物とはみなされない。

世界が急速に変化している中で、今や先進国の中で取り残されつつあるのがヨーロッパと日本だ。

今、ほとんど戦争と言えるほどの激動さをもって世界の情勢が様変わりを始めている。

名目GDPはIMF World Economic Outlook Database(2017)によれば、

  • 1位 米国19兆ドル 
  • 2位 中国12兆ドル
  • 3位 日本5兆ドル

であり、中国が米国に追従しているかのように見える。

しかし、物価の差を考慮した購買力平価(PPP)ベースでは2014年には中国は米国を抜きトップになっている。最新のランクは、

  • 1位 中国23兆ドル
  • 2位 米国19兆ドル
  • 3位 インド9兆ドル
  • 4位 日本5兆ドル

成長率では米国2%に対し中国7%であるから、名目GDPでも数年以内に米国を抜く可能性が高い。

GDPは単に経済的な競争力を示すものではない。GDPが重要なのは、その余剰が軍備に回され軍事力に転換される点にある。

中国はすでに戦闘艦艇の数で米国の約2倍を保有している。対艦攻撃力ではアメリカ軍を超えたと言われ、PPPベースのGDPで米国を抜いた2014年には南シナ海に7つの人工島の建設を開始、2018年までの4年間で米軍の接近を阻止する地対艦ミサイルを配備、南シナの制圧をほぼ完了させている。

2018年、韓国文政権は米国の意向を無視し北朝鮮と連帯を強める政策に出た。朝鮮半島は特にロシアの南下を脅威としていた帝国主義の時代までは米国にとって地政学的に重要だったが今はそうではない。ロシアの影響力が低下した今ではその地理的優位性は下がり、米韓同盟がアメリカの国益において重要でなくなった。

トランプ政権はこのため朝鮮半島からの撤退を示唆しており、在韓米軍は2019年に撤退する可能性がある。

同時に経済力軍事力ともに米国と互角となった中国、および中国が援助する核兵器というカードを持った北朝鮮の2国間との連帯を強める方が韓国文政権にとって得策と見ているのだろう。韓国はより中国に歩み寄る。

3国内で中国が交渉力をもっているから、中国の地理的弱点である半島の南西側の平地に壁を作る目的で38度線を維持する力学が働き南北朝鮮統一は行われない。

中国は北朝鮮と韓国への支援を続け、この3国は独立を維持したまま連帯する。

在韓米軍撤退のシナリオでは中国への牽制力が弱まり中国側に好機をもたらす。

技術力では中国はソフトウェア、韓国はハードウェアと通信で世界トップであり、核ミサイル技術をもつ北朝鮮を傘下におくことで合法的に核武装も完了している。

データ主導のソフトウェア時代では民主主義国家よりも独裁に近い国家が有利である。

日本がもつ唯一のカードは米国に地理的に極東の軍事拠点を提供することであった。

一方で2018年10月には7年ぶりに日本政府の中国への公式訪問が行われ日中協調路線を復活させたように見えるが、中国政府にとってこれが建前に過ぎないのは国家主導による経団連へのサイバー攻撃からも明らかだ。

日米保安条約の限りでは日本の領土への米軍基地提供に選択権はないが、台湾と同様軍事的に対中姿勢を取るか、米中のパワーバランスに従って軸足を調整する戦略をとる以外にない。

いずれにしてもこれまで同様プラグマティズムに終始する。

朝鮮半島からの米軍の撤退如何が鍵になるだろう。

世界は急速に変化している。

個人ができることは、いつ没落するとも知れない国家やローカル文化に依存しない普遍的な力を手に入れ、世界とつながることだ。

より具体的には、言語、テクノロジー、グローバル感覚、の3つの力が必要だ。

日本語圏でのコミュニケーションの殆どがローカルでしか通用しないコンテキストで構成されてしまっているから、まずはここから脱却するところからはじまる。

そして数万大規模のコンピュータクラスタによって世界の情報を処理できるシステムを自国の内部に持たない国家は情報テクノロジーで優位に立つことはなく、新たな帝国主義の時代が来るにつれ属国となるより道はない。

劇的な変化は10年以内に少なくない確率で訪れる。20年後にはまるで違う風景が待っているだろう。

天国に競争はあるか

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東京にまた帰ってきた。ここ数年毎年シリコンバレーに通っていて、最初あの地域に行ったときのあの宗教的熱気のようなものは次第に薄れているような気がする。一言で言えばノイズが増えてきた、ということかもしれない。最近東京に来たカナダの友人も似たようなことを言っていた。

始めてベイエリアに行った頃からの数年来の悪友でありコリアンのエドワードと最近LAに行った時、彼が話していた共産主義への考察が核心を突いていて面白かったので取り上げてみる。

現存する共産主義経済体制をとっている国に北朝鮮がある。(政治的には社会主義国)この国が金日成時代の封建社会から脱する際に、黄長燁という理論家が制度設計のための中心的思想を形成した。黄は当時一党独裁国家であったソ連のモスクワ大学で哲学博士を取得した程の生粋のマルクス派であり、当然ながら北朝鮮の根幹思想チェチェ思想にマルクス主義は存分に反映される。しかし1997年黄は「共産主義に未来はない」と言って韓国に亡命を図る。彼はその後アメリカを中心に反金正日政権運動を展開し、2010年の時点で謎の死を遂げる。なぜ一国の制度設計を行うほどの頭脳が共産主義を理想社会とみなし、そして後にそれを失敗とみなしたのか。

他国から見れば北朝鮮に暮らす人々はなんという不幸な生活を送っているのかと思うだろう。情報は遮断され、一切の贅沢品は禁じられ、髪型まで統制され、毎日決められた仕事をこなすだけだ。しかし、もし彼らがそうした計画された人生以外の可能性を知らないとしたら。組織での出世も若くして成功する者も、社会でのいかなる勝者も敗者も階級も、高級車もエルメスのバッグも、一流のフランス料理も存在しない。そもそもそうした概念が存在しない。概念がなければ自分たちはそれを欠いているという意識すらもつことができない。欠いている意識がなければ不幸にはなりえない。その味を知らなければその味を欲することもないのだから。仕事は平等に与えられ、失業する心配もない。必要十分な暮らしを送り、日々の些細な機微にだけ気を揉む。

曰く、共産主義の世界というのはおそらく各自の役割と生活が全て用意された韓国での兵役に似ていて、要するにそこは、競争、目標、自己実現といった概念の存在しない世界であり、ゆえに劣等感、被期待感、明日への不安、プレッシャーといった資本主義社会では必須の感情から自由になった世界である、だから時々その心地よさが懐かしいのだという。

そうした実現することへの欲求に伴う一切の苦痛から自由になった世界で、日々の役割をこなし、周囲の人々と談笑し、食べ、寝る。そうしているだけで生きていく上での不安は何もなく、明日がまた訪れる。これはまるで典型的な天国のイメージのようだ。

それでもこの混沌としていてひどく疲れる今の世の中の方がずっといい。だから、このあらゆる矛盾と苦悩に満ちた世界は、実はどこかに天国があるとすれば今、まさにこの世界なのだろうか。

なぜチップ制度は存在するのか

チップ制度というのは日本人にとってはあまりなじみがないので、はじめ色々と疑問が起こる。何も疑問を持たずにただそういうものだと受け入れられる人もいる。でも世の合理不合理を追求するのが仕事のような日常では、つじつまのあわない慣習を何食わぬ顔で飲み込み咀嚼するということは殆ど不可能だ。はじめからチップを支払うのが前提ならなぜ正規料金をチップ込みの値段にし従業員の基本給を上げない?タランティーノの『Reservoir Dogs』でチップシステムの奇妙さを饒舌な台詞で聞かされている場合はなおさらだ。

たとえば昔、特定のレストランに足しげく通いながらもチップを払わない、という行動をしていたことがあった。今となっては奇行と言っても良いほど不可思議な行動だ。チップを払わないことはそのサービスを否定していることと同じであるから、否定しながらも頻繁に訪れるとしたら嫌がらせに他ならない。必ずチップを払うようになると、従業員の態度が目に見えて好意的になった。このことはたかだか数ドルのチップが彼らにとっていかに無視できない何ものかであることを示している。

以後、種々の文化的背景を持つ友人とこの話について議論し、同時にチップを支払うことを習慣化していくうちにチップ制度の精神性を徐々に会得するにいたった。こうしてチップの起源を察するに2つの仮説-性善説と性悪説-が導かれる。

第一に、日本の接客業において常識となっている態度、全ての顧客に対してその顧客が何者であってもできるかぎりの接客を行う、というごく自然な前提は西洋にはないらしい。少なくともアメリカにおいて人々の道徳教育は行き届いていないので、従業員が経営者の目を盗み瑣末な接客を行うことは常に起こりうる。したがって、チップは人々のサービスレベルを一定に保つ為の経営戦略が自然と慣習化したという、ダニエル・ピンクによって否定された一種の成果報酬制度である、というひとつの仮定だ。

第二に、使用人という文化になじみの無い国民にはプライベートなサービスという感覚は掴みづらい。日本において公の場での接客業といえば特殊な業務を除いて不特定多数への接客という意味合いであることが殆どで、たとえ一度に接客するのは一組の客であってもその客はあくまでワンオブゼムであるという考え方だ。対して使用人の文化が一般的だった文化圏では、たとえ一度に数組の客を抱えていても関係性は1対多ではなく、1対1となる。チップを介する接客においてサービスとは主人に対して行うもので、客はその場において主人になり、主人であればサービスに対し当然報酬を支払う、という考え方だ。この関係性ではチップは報酬であり礼であるから、チップを支払わないのは礼を行わないのと同じことなのだ。

教養という名の言語

最近アメリカ社会でのエリートと呼ぶにふさわしい人物と話をする機会があったので、文化的な話を色々ともちかけてみると案の定盛り上がった。教養がある人というのは、大抵何か共通した印象をもつ。それを言葉で説明するのは難しい。

教養とは何だろう。英語ではcultureなどと訳される。それは文化とイコールなのだろうか。教養は持つものと持たないものをつくる。社交界やアカデミーにおいては教養は共通言語として働き、持たないものはそのコミュニティの中での尊敬を得ることが難しくなる。どれだけ裕福か、例えば年収がどれだけあるかといった指標は客観性をもつので比較しやすいのに対して、教養の程度は数値化できない。社会的には力がありながらも教養が無いと、時として品がなくまた精神的な成熟さを欠くように見える。

教養が一部の人々の共通言語として機能するのは、それが知的好奇心を示すひとつの指標になりえるからだろう。知的な人々にとって幸福をもたらすのはその知的な好奇心や感性を刺激するものであるはずで、知的好奇心がなければ共感できない対象への理解を表明することによって、互いが知的刺激をもたらす間柄であるということを暗黙のうちに確認し合う。歴史のロジックを読み解くのもおもしろいが、世界の古典的名作はしばしば単純な言葉では表現できない微細な情緒を含む。そうした豊かさを感じられる心こそ人々は教養を通じて確かめあうのかもしれない。誰だってドラマチックな瞬間が好きだし、それを台無しにして興ざめさせられたくない。私の知る限り教養のある人々は得てしてロマンチストだ。

だから教養は俗に思われているような高飛車な差別主義ではない。特別な飲み物をもってして研ぎすまされた味覚を確認しあうように、ある種の知性や感性に間する純度の高いメディアによって瞬時に人々を結びつける高度に抽象化されたコミュニケーションである。

ウディ・アレンの『SMALL TIME CROOKS』(おいしい生活)という映画がある。偶然億万長者になってしまった無知な夫婦が方や社交界で通じる人物になるべく家庭教師のもとで学び、方や元の俗的な暮らしを取り戻すべく二人は離別するという話だ。ババ抜きやインディアンポーカーにふけってグルタミン酸でどろどろの中華料理とピザを食べるレイは滑稽だが、「教養のある人」となるべく退屈なデカダン演劇に浸ったり辞書で覚えたAのつく難しい言葉を並べ立てるフレンチは更に滑稽だ。だって教養とはおそらく衣服のように身につけるものではなくて、身そのものなのだから。

明瞭な米国の雇用の概念

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NPRを聴いていてニュースキャスターがいくつの雇用、という言い方をしているのが気になった。USのメディアではしばしば、例えば失業率は7.9%に対し政府が169,000の雇用を追加した、そのために月々$85Billionの予算をかけている、AppleはAppStoreによって290000の雇用を生み出した、といった記述を目にする。こういう伝え方がされるのは雇用という概念に対してそれを一人分の仕事の単位で捉える価値観が前提にあるからだろう。一言で言えば客観的だ。

日本で雇用というと企業文化的な視点で語られることが多い。採用の時期を早める、定年の時期を早くする、非正規雇用を一定期間後に正規雇用に変えなければならない法案が可決される、こうした情報はどれも雇用される数が一定数ある中でどう調整されるかという流動性の問題であり、流動性の問題は企業文化に依存しているので結局ローカルかつ主観的なテーマに行き当たる。

例えば給与の多い年配層一人を早く退職させて若年層を数人雇うのが良いという主張は一見合理的でも、そもそも企業側が企業の論理と当事者の意思で決めることなので外部がこうすべきと言うのはナンセンスである。こうした誰が損をして誰が得をするというゼロサムゲームを解いたところで均衡に近づくだけで総和としてはプラスマイナス0だ。むしろ経済活動の発展に上限値はないのだから潜在的な仕事も無数にあり、仕事の絶対数を増やすことで問題を解決しようとする方が合理的だ。ちょうど家計において収入の使途の配分を調整することで解決しようとする問題は全て、収入を増やすことで解決するのと同じようにである。そしてこの時、雇用とは数であり、増やすものとなる。

雇用の問題が重要なのは生きることに直結しているからだ。雇用が増えることは社会にとって生き方の選択肢が増えることを意味する。だからあらゆる創業は明らかに有害であるものを除いて有益であり、事業家は雇用されれば-1になっていたパイをプラスに変えることで潜在的に社会に貢献しようとしている。

21世紀のこれからもアメリカは世界の覇権を握り続けるか

アメリカという国はすでに一国を超えた超国家であり、もはやアメリカ人の国ではない。世界で最も優秀な人材が集まり人類が抱える最重要かつ最先端の問題に取り組んでいる特殊な地域である。アメリカの諸大学以上に魅力的且つブランド力のある研究機関が世界のどこかに突如として現れない限り、世界中の最も優秀でビジョナリーな人々はアメリカに集まり続ける。その限りにおいてアメリカは世界の覇権を失うことはない。
 
歴史を辿ればアメリカは卓越したメディア戦略を用いて今ほどのプレゼンスを獲得してきた。日本では太平洋戦争終了後にアメリカの統治下におかれたが、このとき日本国民をアメリカ文化に馴染ませるためにアメリカンホームドラマや映画がテレビで積極的に流された。こうしてパンやコカコーラやアメリカのファッションなどが容易に浸透し、事実上の半植民地的な風土が出来上がる。1980年から90年にかけて、共産主義地域であったモスクワを含む世界中の文化圏に流通した衛星ミュージックチャンネルMTVはアメリカ文化の世界的プロモーターとなり、これと期を同じくしてマクドナルドは世界に店舗を広げている。文化経済一体型グローバリズムの最たる事例である。
  そして今、このグローバリゼーション戦略を全く同様な形で実践しているのが韓国である。  
古き良き韓国への共感を呼び起こす冬のソナタに始まり、東南アジア諸国を中心にファンの拡大を続ける少女時代らのK-POPアイドルに至る一連の国際的メディア戦略は、97年に事実上独占禁止法が解禁され力を蓄えた三星電子、LG、現代自動車製品のプロモーターとして機能している。主要輸出先である中国、香港、シンガポールをはじめ、マーケットが拡大し続けるインドネシア、フィリピンなどのASEAN地域ではTOYOTAやHONDAのSONYのロゴはHYUNDAIやKIAやSAMSUNG,LGにまるでオセロのごとく急速に塗り替えられつつある。
 
2020年にアジア市場(ASEAN+日本+中国+韓国+インド)は16兆ドルの消費額に達しアメリカ、EUを抜いて世界一になると言われている。このアジア市場を制する者が世界をリードするならば、現在着実にその地盤を固めつつあるのが韓国であり、その延長線上には見かけ上韓国が世界のトップに跳躍する像が結ばれる。
  なぜ見かけ上なのか。    
1997年のアジア通貨危機でデフォルト寸前の状態にまで追い込まれた韓国は、IMFの経済介入を受け入れ、財閥の解体政策とともに、翌年、外国人による国内株式投資および債券投資への制限を撤廃し、外国人による敵対的M&Aを許可する。その結果、三星電子、現代自動車の外国人保有率は50%を超え、韓国有価証券取引市場全体での外国人保有率は2004年には42%に達した。韓国最大の銀行である国民銀行の筆頭株主は、Bank
of New Yorkである。  
つまり韓国マーケットの主要な大株主は非韓国である。三星も現代も自力で経営をコントロールする権利をすでに手放している。
また、GDPの80%以上を貿易に依存する韓国の最大の顧客はアメリカである。    
一方、50年前に時計の針を戻すと、この韓国の状況は2000年初頭のバブル崩壊後にアメリカからの関心を失うまでの間の日本の状況に似ている。
戦後の高度成長期に至る過程で、アメリカから総額18億ドルのガリオア・エロア資金援助を受けて復興開発が促進され、1ドル360円の固定相場制のもと輸出を伸ばし経済復興を遂げた。日本は地理的にアジア太平洋地域における拠点となり得たので、アメリカにとっては事実上の植民地として支配権を握ることが即ち太平洋経済圏での力を掌握することに結びついた。日本にとっては日米安保による軍事的な依存状態があったし、なによりアメリカに追従することが復興への近道だった。
 
そして社会学者エズラ・ヴォーゲルが著書『ジャパンアズナンバーワン』を出す頃、日本は少なくとも表面上は世界のトップに躍り出たかに見えた。
確かに日本の自動車や家電製品は売れたが、軍事的、経済的にアメリカに依存し、コントロールされる体質は変わらない。  
アメリカはすでに1兆ドルを超えるアメリカ国債を日銀に買わせている。これは輸出企業がアメリカにものを売り、稼いだドルの最終的な行き先であり、言い換えれば日本国民はこれだけの資産を現実的には返らないアメリカの信用商品に奉納金のような形で積み立て続けてきたとも言える。
     
正義の国としてしばしばプロモーションされるアメリカとは日本にとって何なのか。主権の確保と繁栄がカードの表と裏の関係にあるとき、いかなる選択肢をとるべきなのか。
移動が容易になり、万人が自己相似的にシステムに組み込まれているこの世界では誰もが無関係ではいられない。
これらの問いはアメリカが没落し、持つ者がますます富を集める現在の金融資本主義システムが終わらない限り付き纏い続けるだろう。

【Note】アメリカの銀行口座の手数料、維持費用に関するまとめ – Chase Busiess Select Checking Account 2012

 

銀行口座(Business Account)の開設が取得したTaxIDを使って意外にすんなりできそうなので、銀行でもらったパンフレットを読み様々な処理にかかる手数料に関して勉強した。

どうすればそれらのFeesを減らせるかという観点からまとめている。

 

ちなみに開設した支店はMarket Street沿いのChaseだが、ざっと調べた限り手数料ではBank Of Americaもほぼ変わらないという印象である。

またフランスでソシエテジェネラルの口座を使っていた経験から言えば、チェックの仕組みをもつ西欧の銀行の手数料システムはほぼ共通化されていると思われるのでアメリカ以外の国で口座を開設する際にも参考になるかもしれない。

ChaseはJPモルガン・チェイスアンドカンパニーの傘下にある銀行だが、JPモルガン・チェイス・バンクは2011年にバンク・オブ・アメリカを押さえ総資産で米国最大となった。

CitiBankという選択肢もあり、世界の多くの主要都市に支店があること、ドル送金が手軽にできるというメリットがあるが、

送金については銀行間取引よりもPayPalを経由する方が得策なので、米国内でのサービスを追求するならChaseということになるだろう。

 

以下まとめ。

 

1. 月々$15のService Fee

・口座内の平均金額を$7,500以上に保つ

・紐づいたクレジットカードで$1,000以上使う
・$50のqualifying checking account feeを払っている
・紐づいた個人口座がqualifiedである

– $7500以上常に入れておくのが確実

 

2. 超過引き落としが起こった場合のOverdraft Fees

・十分な金額を入れておく以外にない

もしこのFeeが発生すると、件数ごとに$34のInsufficient Funds Fee,$15のExtended Overdraft Feeなどそれなりに徴収されるので気をつけなければいかない

 

3.ATM,DEBITカード使用時に発生するFees

・基本的にChase以外のATM等を使うときに発生(ATM$2、Debit引き出し3%か$5の多い方)
・海外で引き出すと$5、通貨変換に3%

 

4.その他のFee
・預金される予定の取り引きが失敗(支払い側が残高不足など)した場合に$12
・チェックでの支払い取り消し処理$30
・200トランザクションを超えると1トランザクションごとに$0.4
・最初の$7500以外の追加デポジットに$1000あたり$1または$1.5

 

5. 送金
・米国の他の銀行からの転送入金は$15
・米国の他の銀行への転送は$30または$25
・他国の銀行とのやり取りは$45または$40

 

6. 特殊な処理
・口座への法的な措置への対応や寄付金など

 

7. ONLINE BANKING
・チェックごとに$14.99など

 

*Overdraft protection

Overdraft protectionを設定しておくと、チェックの預金額が足りないときに$10のプロテクション手数料が発生し、通常の預金から支払いを行ってくれる。
Chase.comのCustomer Centerから設定できる。

 

 

*Free Account Alerts

様々なFee発生が起こりうる場面でアラートしてくれる無料サービス。
Chase.com/freealertsで設定できる。

 

 

日本のメディアにはセレブリティという概念がない

今月はロサンゼルスにあるスタートアップハウスに籠ってプログラムを書いている。オンラインスポーツネットワークのスタートアップを経営するジョーダンが、親戚が所有する別荘を最大十名程度が寝泊まりしながら作業ができるように開放しているもので、オフィスはプールやバスケットボールのコートがある庭の一角を占めるガレージを改造した部屋から1分足らずで行き来出来る場所にある。(それにしてもアメリカのスタートアップ関係者は本当にガレージが好きである)ロサンゼルスといってもワーナーが近くにある、かなり外れたところにあるので車を使わない限りどこにも行くところがない。サンフランシスコでは毎晩のようにスタートアップ関連イベントかまたはサルサに通っていたので、生活はがらりと変わった。来月は再びサンフランシスコに戻る。

 

日本のメディアにはセレブリティという概念がないと思う。むしろ格差を隠蔽して総中流を演出するのが日本のメディアの目的の一つだという指摘もある。例えば国内でも有数の俳優が街中の庶民的な店で飯を食い、上手そうな演技をする。たとえ本当に上手くとも、そこに据えられた意味は、私と君達は一緒だというメッセージである。

2000年初頭のITバブルの頃、初めてメディアの中にセレブリティが登場する。つまり大衆とは異質な存在であることを公に主張する者が現れる。新種の存在が現れるときには必ず象徴というものが必要で、六本木ヒルズはその役割を果たした。

要するに日本におけるITバブルの終焉とは、メディアの中でのセレブリティという存在を改めて否定し、高度成長期の旧来の価値観に揺り戻す儀式となった。運動会で全員手をつないで一斉にゴールをするという話があったが(想像しただけで気分が悪くなりそうだ)、皆で一斉に幸せになるというコンセンサスに希望を持てないのは、それが既に嘘であることに皆気づいているからだろう。ヒルズがITバブルの頃の新種のセレブリティを象徴したように、世代交代による新陳代謝を繰り返しながらいつの時代にもメディアに現れ続け、スーパーマーケットのゴシップ紙に顔が並ぶハリウッドのセレブのような存在は、たとえ世界が狂い始めようともこの国には新しい成功がどこかにあるということの象徴としてあり続けている。

 

【Note】シリコンバレーで会社を設立するための基礎知識

「会社設立の基礎知識」

・取締役は株式保有者の人数に応じる。
3名以上保有の場合最低3名必要。
2名なら2名必要。
1名なら1名で可能。

・雇用者番号申請
個人でいうSocial Security Numberのような一社ごとに固有のナンバー
州に登録後、政府に登録
・法人登記簿コーポレートキットの作成
基本定款、株券発行、会社印など

・法人口座の開設
これには連邦番号FEINが必要
個人口座とは分ける

・ビジネスライセンスの取得
雇用者番号とは別。オフィスのある市で取得。費用は市により異なる

・ まず会社を設立してからVisa取得という手順になるのが通常の段取り。

 

「投資ビザ E2」

・十分な初期投資金
$100,000くらいあると良い
・オフィスを構えていること
・質の高い現実的なビジネスプラン

・申請方法
USCISにてステータス変更として申請

 

「H1-Bビザ」

特殊技能保持者。
在米企業での就業が決まっていることが条件。それ以外は大したことない。

申請時期は春、65000人まで。働けるのは取得後10月から。

 

「デラウェア州での設立」
・ネバダ州とよく比較される。
ネバダ州は取締役や役員のプロテクションが厚く、デラウェアは株主の権利保護に厚い。資金集めにはデラウェアが有利だと思われる。

・デラウェア州以外での利益以外には課税されない。

・毎年度特許経営税のみ課される

・設立まで最低1ヶ月はかかる

・アメリカに住む代理人が必要(設立エージェントに委託する場合サービスにインクルードされているのが普通)

・日本で法人として活動するには日本でも営業所登録をしなくてはならない。

・デラウェアで本社を登記した後で、日本に作るのは支社ではなく子会社の方がいいのは、決算処理の時に本社と支社を合わせて計算してから支社分を分けるという手間と費用がかかるから。

・日米租税条約により税金の二重取りはない

 

「デラウェア州で設立した会社の維持」
・年次報告
毎年3/1まで。$50支払い。遅延ペナルティあり

・州税(フランチャイズ税)
(1)授権資本株式数3000株以下なら$35。5000株以下なら$75。10000株以下なら$150。それ以上なら10000株増えるごとに$150追加。
または(2)株価×$350。
(1)(2)で安い方。

・州税(所得税)
デラウェア州内での事業活動に対し8.7%

野生の思考

サンフランシスコ電子音楽祭り

先月台北にいたときには約1年ぶりにゴルフをして、改めて奇異なスポーツだなと思ったのと同時に、アングロサクソン的だとも感じた。クラブに球を当てるときの初動が全てで、後は飛んでいく球に委ねられる。米の栽培や茶のようにプロセスに手を尽くす文化をもった日本人にはこういうスポーツはスポーツとして成立させられなかったはずである。

 

日本には本当に何でもある。何でもあるというのは、必要なものが全て揃っているというよりもごく稀にしか必要とされないものですら流通していて、割と簡単に手に入るというニュアンスに近い。ここアメリカではあれば便利だがなくてもどうにかなるものは多くないし、誰が買うのか全く想像がつかないようなものはあまり売っていない。

何でもあるということは本来ポジティブな面であるはずなのだが、しかしそれらを生産するのに使われる膨大な人的資源を考えれば実際にはデメリットとなっている。明らかに非効率だからである。日本人の勤勉さはかなりの部分が余剰的な価値単価の低いものに使われ、それはゴルフで言うところの初動がいたるところで誤っているからに他ならない。

これを正す最善の手段は学術的な水準を上げる以外にはないだろう。

 

 

9月の第二週にサンフランシスコ市内で行われた電子音楽祭では、いい意味でなく現代芸術化するシーンの一端を見たような感慨を受けた。

少なくとも以前はcomposeとはパズルのピースを一片の狂いもなく埋めるパーフェクトデザインを指していた。今はcomposeとdesign(DJ)の境界が曖昧である。複雑さと微細さが人間の考案する組織-システム-に追いつかなくなったために、そして記録と再生が遥かに容易になったために、かつて主流であった”完成”という態度を暫定的にでも諦めてやり過ごしている。抽象絵画の黎明期にはサロンでは常識的な態度であるFiniに対立した作家が新しい時代の勃興を勝ち取っているが、根本的に視覚芸術と原理が異なる音響芸術との比較はできない。レヴィ=ストロースの言葉を借りれば「栽培された思考」であるところのcomposeと「野生の思考」であるdesign、要はブリコラージュのような方法こそが主流になっていくのであろうか。

 

そういうわけで、こうした時代にあっては、構造のための理論的な支柱がないがゆえに必然的に見堪えのあるところは音の生成の過程となる。その意味で際立っていたのはJemes Feiだった。彼は台湾出身である。 現代的な楽器のインターフェイスはしばしば、アウトプットと身体性との距離が大きいのでコントロールがより難しい。そしてコントロールを諦めたことが露呈したその瞬間、興が冷めるわけである。身体性から切り離されるほどに、そして情報エレクトロニクスの技術が進んだ結果考慮すべき要素が次第に複雑かつ微細になるほどに、音は人間のコントロール下から当然離れていく。Jhon CageのChance Operationという概念はまさにこのコントロール不能となりゆく傾向に対し、それでも人間はコントロールしているのだと言い張るアカデミックな権威の皮を借りた正当化を許されようとする諦めに他ならない。 こうした一時しのぎを通過しながら、歴史は次なる概念を導入する必要に迫られる。

 

近年の傾向を集約して延長すれば和声と旋律が融解し音程感から自由になった「ビート」のようなものに集約されていくのだろうか。だとしたら、あまりに退屈である。

台北再見、南國

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今日9月3日、8:45の便で台北を発つ。今から5時間後には飛行機の中で、さらに3時間後には成田、その14時間後にシアトル、それからサンフランシスコということになる。
日本でハウスの人達にシャンパンとワイン(これは数年前のフランス時代に愛飲していたものを何年も開けずに保持していた文字通りとっておきの一品である)で送ってもらったのがつい先日のように、ここ数週間はあっと言う間に過ぎた。

台湾に最初に注目したのは数年前、私が今の仕事を始める頃、優れたWebデザインのサイトを漁っていた時である。それはひとつの歯科医院のサイトであったが、日本でなら病院のWebなどひとつ残らず版を押したような形式的で没個性的なデザインであろうところが、まるでフォトアルバムのように美しく動くそのサイトを見て、その国の創造性を感じとったわけである。

確かに首都台北といえど、一部の先端エリアを除いてはまだまだ発達の度合いは後進国の様相であるし、事実平均賃金も3万NTD、日本円にして10万円弱であるからあくまでポテンシャルであるものの、その芽はあちらこちらで散見される。
HTCは苦戦しているようだが、Marcos Zotesの3D投影や新都市Gardens By The Bay、または電通のiButterflyの情報すらコンビニでどこでも売っているメディアから気軽にアクセスできるほど世界情勢への感度が高いし、誰でもテレビをつければハリウッドや韓国や日本の文化を各国のチャンネルから吸収できる。通常自国チャンネルだけ流れてくる我が国とはこの辺りが決定的に異なる。

ちなみに台湾は日本のカルチャーをリスペクトしていると言うのがネット含む日本語メディアの通説だが、これはすでに一昔前の話で、今は韓国の方がクールだと言う人はざらにいるし、圧倒的に英語圏への憧れの方が高い。教育上、両親は台湾人であっても子供と英語でしか話さないなんて家庭は珍しくない。

なんでも柔軟に吸収し、尖ったものへの抑制が少ない寛容な国。日本も昔はこうだったのだろうか。横並びなムードをそろそろ脱しないと、置いて行かれてしまうよ。