ChatGPTに知能はあるか
1. 創発性
2. 論理
the bird in a herd
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自然と人工物は相克してきた。少なくとも近代的な価値観では。
“例の問題”に再び向き合いはじめ、昨年初頭前稿を書いてからしばらく経った頃、ひとつの仮説を見出した。詳しいことはここには到底書くことができない。やや具体的には、進化のより進んでいることを示唆する信号、自然物とそうでないものを区別する信号、そしてそれらを支配する情報の保存と伝達のシステム、とりわけ、知能を持つ生命やその身体の発する振動あるいは草木と風の送受信する振動。かつて、生態学者の間には森は安定状態、あるいは復元性=resilienceを全体最適化するひとつのリダンダントなシステムであるという理論があった。現象にはメカニズムがあり、鳥や人間の歌もまた、系のルールに従っている…。昨年冬はマウイ島やメキシコ湾に、必要なデータを採取しに行くことを計画し航空券も手配したところで機会を逃し、そうこうしているうちにパンデミックで空路が途絶え、極東の奇妙な形をした島に隔離されてしまった。
2019年1月の前稿『20年後の世界と取り残される人々 激動の時代の始まり、塗り替えられる勢力図』では中国をめぐる脅威、既に2014年には世界一だった購買力平価(PPP)ベースのGDPと、増大する経済力・技術力を背景に南シナをはじめ急速に軍事力を拡大していることを書いた。それから日本国内でこの問題を案じるような人物にはついぞ出会うことはなかった。
前稿から1年半の間、世界はさらにどこかの地に歩みを進めた。昨年4月に香港では逃亡犯条例改定案を契機にデモが過激化し、今年6月に香港国家安全維持法が可決、香港での反中国的言動の自由は事実上禁じられた。1月には習近平が一国二制度による対台湾政策を提示、蔡英文はこれを否定、その後蔡は台湾総統選に勝利したが、今も統一か独立宣言による武力侵攻かの危機に晒されている。昨年3月には米ソ冷戦後初の特別な危機委員会となる「Committee on the Present Danger: China (CPDC)(現在の危機委員会:中国)」が米国で設置、今年8月には中国ファーウェイ社製の通信機器にバックドアが仕込まれているとし、関連企業への禁輸措置を強化、米国からの半導体やソフトウェアの同社への供給を全面禁止した。世界はすでに冷戦の様相を呈している。
私たちの社会は、2050年までに高密度化する都市とロハス的理想郷としての陬遠地域の二局構造に収斂していくだろう。今とりわけ九州のある地域を足がかりに検証している。二元論的な、あるいは要素還元主義的な、文明というある種の生態系システムへの再考に、人間社会は直面する。そのことは人間と、ネットワークを流れる情報を含む、人間以外のあらゆる全てとの関わり方について再考の機をもたらした。今から17年前、高校三年の時、この近代合理主義への問題を懐柔できず彷徨する羽目になった。森や草木の遠望される形態は、高解像な4K映像を通じて、45億年の進化に裏打ちされた、圧倒的な正義として表示される。ピクセル密度の変化は「画素数」という一見してリニアな量的変化を超えて、何か質的な変化を私たちにもたらしているように思える。周波数知覚の認知が可聴域限界を閾値として、いわば「相転移」するかのように。そうして見える空撮映像は、文明という人工物の「玩具」に過ぎないことを露呈してしまった。
東京にまた帰ってきた。ここ数年毎年シリコンバレーに通っていて、最初あの地域に行ったときのあの宗教的熱気のようなものは次第に薄れているような気がする。一言で言えばノイズが増えてきた、ということかもしれない。最近東京に来たカナダの友人も似たようなことを言っていた。
始めてベイエリアに行った頃からの数年来の悪友でありコリアンのエドワードと最近LAに行った時、彼が話していた共産主義への考察が核心を突いていて面白かったので取り上げてみる。
現存する共産主義経済体制をとっている国に北朝鮮がある。(政治的には社会主義国)この国が金日成時代の封建社会から脱する際に、黄長燁という理論家が制度設計のための中心的思想を形成した。黄は当時一党独裁国家であったソ連のモスクワ大学で哲学博士を取得した程の生粋のマルクス派であり、当然ながら北朝鮮の根幹思想チェチェ思想にマルクス主義は存分に反映される。しかし1997年黄は「共産主義に未来はない」と言って韓国に亡命を図る。彼はその後アメリカを中心に反金正日政権運動を展開し、2010年の時点で謎の死を遂げる。なぜ一国の制度設計を行うほどの頭脳が共産主義を理想社会とみなし、そして後にそれを失敗とみなしたのか。
他国から見れば北朝鮮に暮らす人々はなんという不幸な生活を送っているのかと思うだろう。情報は遮断され、一切の贅沢品は禁じられ、髪型まで統制され、毎日決められた仕事をこなすだけだ。しかし、もし彼らがそうした計画された人生以外の可能性を知らないとしたら。組織での出世も若くして成功する者も、社会でのいかなる勝者も敗者も階級も、高級車もエルメスのバッグも、一流のフランス料理も存在しない。そもそもそうした概念が存在しない。概念がなければ自分たちはそれを欠いているという意識すらもつことができない。欠いている意識がなければ不幸にはなりえない。その味を知らなければその味を欲することもないのだから。仕事は平等に与えられ、失業する心配もない。必要十分な暮らしを送り、日々の些細な機微にだけ気を揉む。
曰く、共産主義の世界というのはおそらく各自の役割と生活が全て用意された韓国での兵役に似ていて、要するにそこは、競争、目標、自己実現といった概念の存在しない世界であり、ゆえに劣等感、被期待感、明日への不安、プレッシャーといった資本主義社会では必須の感情から自由になった世界である、だから時々その心地よさが懐かしいのだという。
そうした実現することへの欲求に伴う一切の苦痛から自由になった世界で、日々の役割をこなし、周囲の人々と談笑し、食べ、寝る。そうしているだけで生きていく上での不安は何もなく、明日がまた訪れる。これはまるで典型的な天国のイメージのようだ。
それでもこの混沌としていてひどく疲れる今の世の中の方がずっといい。だから、このあらゆる矛盾と苦悩に満ちた世界は、実はどこかに天国があるとすれば今、まさにこの世界なのだろうか。
最近アメリカ社会でのエリートと呼ぶにふさわしい人物と話をする機会があったので、文化的な話を色々ともちかけてみると案の定盛り上がった。教養がある人というのは、大抵何か共通した印象をもつ。それを言葉で説明するのは難しい。
教養とは何だろう。英語ではcultureなどと訳される。それは文化とイコールなのだろうか。教養は持つものと持たないものをつくる。社交界やアカデミーにおいては教養は共通言語として働き、持たないものはそのコミュニティの中での尊敬を得ることが難しくなる。どれだけ裕福か、例えば年収がどれだけあるかといった指標は客観性をもつので比較しやすいのに対して、教養の程度は数値化できない。社会的には力がありながらも教養が無いと、時として品がなくまた精神的な成熟さを欠くように見える。
教養が一部の人々の共通言語として機能するのは、それが知的好奇心を示すひとつの指標になりえるからだろう。知的な人々にとって幸福をもたらすのはその知的な好奇心や感性を刺激するものであるはずで、知的好奇心がなければ共感できない対象への理解を表明することによって、互いが知的刺激をもたらす間柄であるということを暗黙のうちに確認し合う。歴史のロジックを読み解くのもおもしろいが、世界の古典的名作はしばしば単純な言葉では表現できない微細な情緒を含む。そうした豊かさを感じられる心こそ人々は教養を通じて確かめあうのかもしれない。誰だってドラマチックな瞬間が好きだし、それを台無しにして興ざめさせられたくない。私の知る限り教養のある人々は得てしてロマンチストだ。
だから教養は俗に思われているような高飛車な差別主義ではない。特別な飲み物をもってして研ぎすまされた味覚を確認しあうように、ある種の知性や感性に間する純度の高いメディアによって瞬時に人々を結びつける高度に抽象化されたコミュニケーションである。
ウディ・アレンの『SMALL TIME CROOKS』(おいしい生活)という映画がある。偶然億万長者になってしまった無知な夫婦が方や社交界で通じる人物になるべく家庭教師のもとで学び、方や元の俗的な暮らしを取り戻すべく二人は離別するという話だ。ババ抜きやインディアンポーカーにふけってグルタミン酸でどろどろの中華料理とピザを食べるレイは滑稽だが、「教養のある人」となるべく退屈なデカダン演劇に浸ったり辞書で覚えたAのつく難しい言葉を並べ立てるフレンチは更に滑稽だ。だって教養とはおそらく衣服のように身につけるものではなくて、身そのものなのだから。
今月はロサンゼルスにあるスタートアップハウスに籠ってプログラムを書いている。オンラインスポーツネットワークのスタートアップを経営するジョーダンが、親戚が所有する別荘を最大十名程度が寝泊まりしながら作業ができるように開放しているもので、オフィスはプールやバスケットボールのコートがある庭の一角を占めるガレージを改造した部屋から1分足らずで行き来出来る場所にある。(それにしてもアメリカのスタートアップ関係者は本当にガレージが好きである)ロサンゼルスといってもワーナーが近くにある、かなり外れたところにあるので車を使わない限りどこにも行くところがない。サンフランシスコでは毎晩のようにスタートアップ関連イベントかまたはサルサに通っていたので、生活はがらりと変わった。来月は再びサンフランシスコに戻る。
日本のメディアにはセレブリティという概念がないと思う。むしろ格差を隠蔽して総中流を演出するのが日本のメディアの目的の一つだという指摘もある。例えば国内でも有数の俳優が街中の庶民的な店で飯を食い、上手そうな演技をする。たとえ本当に上手くとも、そこに据えられた意味は、私と君達は一緒だというメッセージである。
2000年初頭のITバブルの頃、初めてメディアの中にセレブリティが登場する。つまり大衆とは異質な存在であることを公に主張する者が現れる。新種の存在が現れるときには必ず象徴というものが必要で、六本木ヒルズはその役割を果たした。
要するに日本におけるITバブルの終焉とは、メディアの中でのセレブリティという存在を改めて否定し、高度成長期の旧来の価値観に揺り戻す儀式となった。運動会で全員手をつないで一斉にゴールをするという話があったが(想像しただけで気分が悪くなりそうだ)、皆で一斉に幸せになるというコンセンサスに希望を持てないのは、それが既に嘘であることに皆気づいているからだろう。ヒルズがITバブルの頃の新種のセレブリティを象徴したように、世代交代による新陳代謝を繰り返しながらいつの時代にもメディアに現れ続け、スーパーマーケットのゴシップ紙に顔が並ぶハリウッドのセレブのような存在は、たとえ世界が狂い始めようともこの国には新しい成功がどこかにあるということの象徴としてあり続けている。
私がなぜ「若者は海外に出ろ」「若者はノマドになれ」と煽っている識者やジャーナリストに怒っているか?それは「夢を売る詐欺」だからです。人生を狂わせる人が大勢いるかもしれないからです。嘘をつかないこと、人を不幸にしないこと、は、最低限守らなければいけないことで、当たり前のことです。
ノマドという言葉は映画史におけるヌーヴェルヴァーグのようなもので、ワークスタイルのある種の傾向を分析しラベリングするためにとってつけた言葉であると同時に、批評の力学をゴダールやトリュフォーやリヴェットのような若い作家に享受するためのひとつのスターシステムのようなものだと思っている。May_Roma女史が「煽っている」という識者やジャーナリストはそのシステムにおける批評家としての役割を演じており、事実彼ら批評家が発信したそのコンテクストの中で安藤美冬やphaといったスタープレイヤーが輩出された。
キャビンアテンダントのドラマが流行った時代はその志望者が増えたというデータがあるが、当然キャビンアテンダントには誰もがなれる訳ではないので、何年もかけて目指した挙げ句素質がなかったために諦めて他の職業に就き、端から見て人生を狂わされたという人もいるかもしれない。そのドラマに対し、キャビンアテンダントという職業を世の中により魅力的に広く伝えた仕事、とするか、「夢を売る詐欺」とするかは個人の主観に依るところなのでどちらが正しいとも言えない。
@hayamayuuそうです。大成功するのはごく少数で、凡人が大成功した人の真似をしても無理なんです。自分の身の丈や能力にあったことを、無理しない程度にやらないと、絶対に失敗します。
ただ、彼女の言う「失敗」と「大成功」が具体的に何を指しているのか分からないが、客観的にみて「失敗」したように見える当人の多くはそれを失敗だとは思っていないのではないだろうか。たしかに破産したり生きていく術を失ってしまった場合は失敗ということになるのかもしれないが、重要なのは失敗しないことではなくて、失敗するリスクを勘案してそうしているか、である。
社会に必要なもののうち情報化できるものの割合が多くなったので、仕事が個人に切り分けられていく傾向は不可避である。議論すべきなのはこの傾向を止めるか促すかではなく、それが自然な歴史の流れであるという前提の基、どのようにリトライ可能な社会を実現または維持していくか、ということだ。大局的な「成功」の定義はこの世代の人たちのそれから変わりつつあるので、たとえ識者やジャーナリストが勝手な成功イメージを添えて紹介していても新しい世代には知ったことではない。彼らは彼らのイメージを勝手に具体化しようとするだろう。
ノマド的な働き方に必要なのは、才能ではなく技能である。だから凡人であろうと天才であろうと問題ではない。むしろ、”誰でも生身の状態では凡人である”という事実を認識した上で、訓練を積み重ねていく以外にはない。
松井博/Hiroshi Matsui
@Matsuhiroノマドというと「セルフランディング」っていうけど、何より大事なのは高いスキル。それがないとセルフブランディングなんていくらしても無駄。
最近ではノマドやノマドワークという言葉が一人歩きしながらテレビなどでも話題にされるらしいが、多くの人が誤解しているのは、この言葉が「遊牧民」という言葉から派生しているというものである。
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そもそもの問題点として日本人はたとえ高学歴層であっても、米国の上位大学で義務的に課される習慣つまり古典的なテキストをあたる習慣がある人種はかなり希少なので、文脈から切り離された言葉の印象を基点とした議論に陥りやすい傾向があると思われる。
経済学者の池田信夫氏も度々ツイッター等で経済学用語の誤用に怒りを示しているが、抽象概念は歴史を背負って存在する、言葉が文字通り進化したものである以上、その言葉を定義づけるテキストを読まなければ本当の意味で正確に理解することは難しい。
そして議論は言葉を通じてなされるのであるから、特に抽象度の高い概念を用いる程、そもそもの言葉の定義がずれていてはまともな議論になり得ない。
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まずノマドという言葉を議論の俎上に乗せる前に、これが「超ノマド」という概念に由来していることを理解している人がどれだけいるのだろうか。
超ノマドとはフランスの経済学者、思想家でありまた初代欧州復興開発銀行総裁を努めたジャック・アタリの著作『21世紀の歴史』で記述される、情報化社会以降の現代において携帯可能なデバイス(ノマドオブジェ)と専門的な技能を駆使して土地に依存しないフロー型の生活を行う者のことである。
超と言うからには超でない普通のノマドという概念からの派生であるが、この場合のノマドも遊牧民を指しているのではなく、情報化社会以前の社会で移動を伴う生活を行っていた人種のことを指し、これは12世紀に会計技術の発明によって金融業が栄えたジェノバをはじめとする「中心都市」とその中心都市を巡っての大局的な人の移動という文脈とともに説明される概念であり、当たり前だが広辞苑で引いても同じものは出てこない。
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重要なことはデジタル技術の発達により、我々が社会の中で生み出すもののうち情報化できるものの範囲が広がったので、情報を効率よく伝達できる移動性のツールを伴って「土地という制約からより自由になる人種」が増えるということである。
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従って、ノマドという言葉を単純に遊牧民的なイメージとして語るのは、言ってみれば「オタク」を〜オタクのオタクと同一概念で語ることと同様、言葉の進化のコンテクストを無視した行為であると言えるだろう。
パブロフの犬という実験をご存知だろうか。パブロフは1904年に最初のノーベル医学生理学賞を受賞したロシアの生理学者だが、犬を対象に餌と唾液分泌の関係を調べているうちに餌を与える係の学生を見るだけで犬が唾液を分泌すようになることを偶然発見し、この生理現象を先天的な「無条件反射」に対して「条件反射」と名付けた。
つまり一定の条件が与えられるとその条件に結び付けられた回路をパルスが走り、特定の行動や感覚を引き起こすというものである。
これは人間にも起こることはしばしばレモンのイメージを与えて唾液線を刺激するような実験で説明される。
さて、条件反射を喚起するというテーマであるが、即ちこの生物がもつ条件反射のメカニズムを応用し自己や他者の情動に変化を与えることができれば自分を含めた人を動かすことができるということになる。
レモンをイメージさせて唾液を分泌させるように、ある任意のイメージを想起させてターゲットとする感覚を引き起こし、期待する行動へと誘導する。
ある共通の文化的背景の中で多くの人が後天的に身につける条件反射のパターンというものが確実に存在するので、そのパターンに嵌め込むということである。
その際に無視できないのは織り成される言葉がもつイメージ喚起力である。人は小説を読むと脳内に像を描き、時には登場人物が経験する感覚に自身の感情を半ば無意識的にシンクロさせてしまうということがある。またギリシャ神話で用いられた物語のパターン-少年が旅立ち自らを鍛え悪に立ち向かい真の父親に出会うというパターン-では条件反射的にアドレナリンを分泌させるので数々の物語に応用されている。(忠実に従ったものとしてSTARWARSが有名であるのだが)
ローコンテクストな芸術作品を見た時にアーカイブの量と質によって感じ方が異なるのもこのメカニズムによるものだろう。吸収してきたアーカイブによって後天的に作られる回路がそう感じさせるのである。一方で長調では明るく、短調では切ない感覚を覚えるのは無条件反射に属すると思えるがこの辺りはドーキンスの進化論で示された文化ミームとの関わりから後ほど詳しく書くことにしたい。
摂理とは元々キリスト教の概念である。Providence(神意)に相当し、自然発生的に生まれ均衡の保たれたシステムを神の御業に例えて使われる。
アタリも指摘するように、人類が個人の自由の獲得へと奔走してきたことは歴史が示している。まるで個の自由がより尊重されたシステムこそエントロピーが増大した自然状態に近づくかのようにである。
このことから人間というものは生来自由を求める生き物であると仮定するならば、より個として自由に生きることが可能な時代になるにつれ、それを実践する人々の割合が増えるのは必然である。産業が複雑化すると同時に、情報で切り分けられた仕事はデジタルネットワーク上で転送可能になり、つまりこの高度情報化時代において土地への依存から土地に依存しないネットワークへの依存に変容したことが空間という一つの制約を我々から取り除きつつあるので、我々は必然的に制約の少ない方向へと歩んでいく。
個の自由とは何か。それは行動の選択肢がより幅広く、依存の少ない状態と言える。空間的な制約がなければどこにいるかを選択することができるし、時間的な制約がなければいつ何をするのかを選択できる。組織のコンプライアンスを背負わなければ、言論の制約を受けない。また給与所得による金銭獲得は給与の払い手、つまり多くの場合所属する企業からのみ生きるための資金を委ねている状態となり、ライフラインを一つの存在に握られている高リスクな依存状態と言える。子供であれば親が同等の存在である。農耕時代は文字通り土地に依存し、工業化時代は主に固定された設備に依存した。土地に依存せず携帯可能な情報デバイスを必須のツールとする現代は狩猟時代に近い。必須であるが依存しないのは道具は現地でも調達できるためだ。ソフトウェアやデータはクラウド上から引き出せる。
なぜ人々は制約の少ない低依存状態を指向するのだろうか。
多くの地上の動物は卵や胎内で生まれ、巣や親の近くで餌を与えらながら育つ。やがて自分の手足で移動できる身体能力を獲得し、自ら獲物を獲る方法を身につける。そして個として、時として他者と協力したり争いながら生きていく。こうした性質は我々が本能的に備えていることなのかもしれない。
生産と消費に分けられる経済活動の多くは自宅で完結できてしまう時代になった。それでも私たちは移動する。なぜか。移動は運動の延長で、運動は生命が生命たる証左なら、移動は生命活動の純粋な延長と言えるのかもしれない。生きているものは細胞が運動を続け、熱をもつ。
村上龍の小説にたしかこんな一説があった。『歌うクジラ』の末尾である。
宇宙ステーションから脱出したアキラは冷たい宇宙の闇の中で旅の途中に出会ったアンやサブロウさんやサツキという女のことを思う。そして輝く一点の光に向かって祈り、近づきつつある死を予感しながら大切なことを理解する。人生にとって唯一意味があるのは他者との出会いである。そして移動しなければ出会いはない。
私は美味いものだけを食べて生きていきたいと常日頃思っている。もちろん食べるというのは比喩だ。嫌なことは極力しないよう努力する。嫌なこととは面倒なことや苦労を伴うものでなく、自分にとって価値の低いものという意味である。苦しいことでも価値のあることはいくらでもある。価値のないことに時間を消費するのは無意味だし、不味いものを食べていると舌が劣化し食欲も減退する。そうならないために一番いいのは極力シンプルな生き方を心がけることだ。シンプルであることは執着の対極とも言える。最も簡単なのはモノを捨てることである。ものを捨てることは本当に必要なものだけを残すマインドを作り、それは結果的に時間を大事にすることにつながる。必要なモノ以外を捨てるとどれだけ不必要なもの(重要でないもの)に執着し、またそれがなくても生きていけるかを無意識のレベルで知る。
人もモノも情報も世の中は全てに関わり切れないほど溢れていて、その全体量から考えれば重要だと感じる可能性があるものですら触れ合い尽くすことはできない。だから人生の有限の時間を価値あるもので満たす努力は捨てることから始まる。世の中はトレードオフであり、得ることと捨てることは同義だ。
内発的動機づけは外発的動機づけに勝る。この本のテーマであるが、これだけ聞くと当たり前のように思える。しかし、一言で伝わる主張のためにわざわざ一冊の本は書かれない。
以前のエントリーで我々事業主がもつコスト感覚について書いた。
自らの行動コストと利益を逐一天秤にかけ、合理的で最善の行動をとろうとする習慣的感覚である。こうした行動の枠組みは従来の経済学では前提条件として与えられるものであった。つまり、人々は常に経済的利益を最大化する行動を選択するという前提に基づいて理論が組み立てられてきた。ブルーノ・フライが言うところのホモ・エコノミクスー経済人種ーである。
本書が引き合いに出す、報酬と処罰といった外発的動機によってモチベーションを維持する旧来のオペレーションシステム、モチベーション2.0はこうした発想に基づいている。
わたしはお守りのようなフレーズを見つけて試験に適用したおかげで、ロースクールを何とか乗り切れた。「完全に情報が公開され、処理コストが低価格の場合、当事者は、富を最大化する結果を目指して取り引きする」
それからおよそ10年後、わたしが多額の授業料を払い、懸命に学んだ内容の大半に疑問を投げかけざるをえないような、奇妙な出来事が起こった。2002年、ノーベル財団は、ノーベル経済学賞を経済学者でない人物に授けた。主な受賞理由は、人は必ずしも自己の利益を最大化することを目的に取り引きしない場合も多い、という事実を明らかにした功績だった。
その人物とはアメリカの心理学者、ダニエル・カーネマンである。カーネマンは『Thinking, Fast and slow』の著者で人間の行動の多くは無意識的判断(システム1)に寄り、意識的判断(システム2)は人間の行動を決める要因の一面に過ぎないとした。
この主張はシステム2、即ち合理的な思考によって行動することを前提とした従来の経済学に対しパラダイムシフトの可能性を示唆する程のインパクトをもっていた。経済学の常識が畑違いの人物によって覆されるのは痛快であり皮肉だが、同様なことはソロスからも以前より指摘されており、価格の均衡が合理的に決定されるという逸話に対しては現実に大きな資金を動かす金融の実践者程疑問を持っていたのではないだろうか。従来の経済学の理論が理想的な条件を基に考察されてきたのは多くの人が指摘する通りである。
さて、本書が主張する内発的動機付けのもつ優位性にまつわるフレームワークは他者をマネジメントする際に特に直接的に作用し得るし、実際に多くがそういった視点で書かれている。
21世紀は、「優れたマネジメント」など求めていない。マネジメントするのではなく、子供の頃にはあった人間の先天的な能力、すなわち「自己決定」の復活が必要なのである。
同時に、人は誰でも自らをマネジメントしているから置かれた環境によって野心の火種を絶やさないために回避すべき、または改善すべきチェック項目を持っていたい。本書はその助けとなる。