純粋な鑑賞の嘘

人は不可逆的な時空の流れの中に生きている。整然と、まるで永遠に存在するかのように現代に残る絵画も一方向に流れる時間のある瞬間において生まれた。写真から派生した絵画は、写真が備えていた瞬間を切り取るという目的同様に、その時代の情報から切り離すことができない。

生物が進化の過程を遺伝子内部に塩基のコードとして書き込むように、画家は写真機が取り込むことのできる光の像を越えた時空の片鱗を一枚の絵に遺す。画家はその絵がもつ殆ど全ての情報を授けた母であり、歴史が画家を生んだ。言い換えれば、作品には意図せずとも介入の避けられない歴史と蜜月な作家の知覚の情報が刻まれている。とりわけ作家は作家であると同時に鑑賞者でもある。全ての創造は過去のアーカイブの継承である。

より純粋でニュートラルな状態で作品を鑑賞したい、だからあえて予備知識のないままミュージアムに足を運ぶのだという人がよくいる。その行為自体は何ら咎められるものではないにしろ、最も純粋な状態でその作品を鑑賞できるのは、即ちそこに込められた情報を過不足なく共有できるのはこの情報を与えた製作者本人を除いて他にない。そして現代に生きる私達にとっては知識という形で情報を獲得し、彼らとは物理的に異なった時間軸上に生きているために生じるその知覚の溝を埋めることで作品に接近することこそが、かろうじての純粋な鑑賞と言えるのではないだろうか。

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