個の時代は人類にとっての摂理

摂理とは元々キリスト教の概念である。Providence(神意)に相当し、自然発生的に生まれ均衡の保たれたシステムを神の御業に例えて使われる。
アタリも指摘するように、人類が個人の自由の獲得へと奔走してきたことは歴史が示している。まるで個の自由がより尊重されたシステムこそエントロピーが増大した自然状態に近づくかのようにである。
このことから人間というものは生来自由を求める生き物であると仮定するならば、より個として自由に生きることが可能な時代になるにつれ、それを実践する人々の割合が増えるのは必然である。産業が複雑化すると同時に、情報で切り分けられた仕事はデジタルネットワーク上で転送可能になり、つまりこの高度情報化時代において土地への依存から土地に依存しないネットワークへの依存に変容したことが空間という一つの制約を我々から取り除きつつあるので、我々は必然的に制約の少ない方向へと歩んでいく。
個の自由とは何か。それは行動の選択肢がより幅広く、依存の少ない状態と言える。空間的な制約がなければどこにいるかを選択することができるし、時間的な制約がなければいつ何をするのかを選択できる。組織のコンプライアンスを背負わなければ、言論の制約を受けない。また給与所得による金銭獲得は給与の払い手、つまり多くの場合所属する企業からのみ生きるための資金を委ねている状態となり、ライフラインを一つの存在に握られている高リスクな依存状態と言える。子供であれば親が同等の存在である。農耕時代は文字通り土地に依存し、工業化時代は主に固定された設備に依存した。土地に依存せず携帯可能な情報デバイスを必須のツールとする現代は狩猟時代に近い。必須であるが依存しないのは道具は現地でも調達できるためだ。ソフトウェアやデータはクラウド上から引き出せる。

なぜ人々は制約の少ない低依存状態を指向するのだろうか。
多くの地上の動物は卵や胎内で生まれ、巣や親の近くで餌を与えらながら育つ。やがて自分の手足で移動できる身体能力を獲得し、自ら獲物を獲る方法を身につける。そして個として、時として他者と協力したり争いながら生きていく。こうした性質は我々が本能的に備えていることなのかもしれない。

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