生存意欲
2011/11/29
狩猟採集時代は至ってシンプルだった。植物性タンパク質を含めた、獲物を穫る能力が高いものが生き残った。
今は獲物の穫り方や獲物そのものが複雑になった。それでも生存にかける意欲は変わらない。たとえ猿と人の間でも。
そのように思っていたときがあった。しかし今ではその認識は偽であると思っている。
この社会はその総体において生存意欲を失っている。
農耕文化が発達すると富の生産は一部の経験のあるものに委ねられる。
そうなると他の者は余剰となった時間で別の産業を生み出し、発達させる。
その繰り返しで個々の産業は高度化し、やがて大規模設備に依存した大量生産の方法が生まれる。
生産社会の構成員は持つ者と持たない者に別れていき、資産と時間的蓄積を持たない若年者は通常持たない者となる。
生産形態が社会の中でシステム化するにつれ、持たない者はその社会の内部にいる限り持つ者に依存せざるを得なくなる。
そうして大人たちは若年層をコントロールする力を持つようになる。
産業の規模が小さく親の後を継ぐことで生産手段を手に入れた時代もあったが、
現代は他人が他人を選び生産手段を与えることが一般化した社会である。
当然選ぶのは大人であり、若年層は大人たちの基準によって選択され生産手段が与えられる。
言い換えれば、高度に他者に依存した社会システムということになる。
依存状態は危機感を希薄にし希薄化した危機感は生存意欲の衰退に直結する。
この国が今後どうなるかは即ち、生き残る、という最もベーシックな危機感をリアルな数でどれだけの人が持ち維持できるかによると思っている。